季節は梅雨まっただ中の昼下がり。夜勤明けで午後一番に帰宅してきた猪旦那は開口一番、出迎えたヨメ高遠に向かってこう言った。
「すまんが、以前作ってくれたあれ、明日までに作ってくれないか?」
寒いくらいに冷房の効いた室内、黒のタンクトップに綺麗な足を惜しげもなくさらした短パン姿の珍しい出で立ちのヨメ高遠(本当に蒸し暑い日本の夏が苦手らしい)は、旦那の台詞に首を傾げた。
「あれ?って、なんですか?」
アタッシュケースを置き、スーツをクローゼットの前に掛けた後高遠がリビングに戻ってくると、リビングテーブルの上に猪川が注いだ新しい麦茶が二つ並べてあった。高遠の麦茶のグラスの方には可愛らしいピンクのハート型マドラーが突っ込んであるのはご愛敬だが。
「ほれ、その、あれだあれ。何とかって言うケーキ」
猪川はなぜかなんとな〜くばつが悪そうに口ごもる。
「念のために伺いますが」
高遠が目の前の麦茶を一口、ごくんと飲み干してから猪川に聞いた。
「まさかあなたが食べるため、ではないでしょうね?だったら僕は二度と作らない、と堅く決心してますけど?」
そう、過日、甘党の猪旦那の為にイギリス仕込みのチョコレートのムースケーキを高遠は作ったのだ。
そのケーキは素晴らしく美味であり、猪川は大いに満足したのだが・・・だが、不幸なことに猪川はムースの土台にたっぷりとしみこませた慣れない洋酒に酔っぱらってしまって吐くは歌うは暴れるは押し倒すはの大騒ぎで、あげく高遠に殴られて気絶、二日酔いのおまけまで付いてしまったのだ。ああ、哀れ・・・。
人様の猪川は酒豪で「酒は飲んでも飲まれるな」の手本のようにイメージされていらっしゃるのだが、何故かかんすの「夫夫もの」の猪川はビール一杯が限界、と言うバリバリの左党なのである。この辺りでお詫びをさせていただく。
「俺が食うんじゃない。ちょっと頼まれ物なんだ」
つぴーん!とヨメ高遠の脳裏に推理が閃く。
「女の方、ですか?差し上げる方は・・・」
「あ、ああ。いつも世話になってるからな」
へええ、と高遠はわざわざ感心して見せ、にやりと笑ってずずい!と猪川に詰め寄る。
「いつ、誰が、どこでどんなお世話になった方なんでしょうねえぇ?それにな〜んで僕がそのお世話になった女性へのご進物をわざわざ作らなきゃいけないんですか?」
きりきり返答せんかい!!とでも言うようなヨメ高遠の怖い乗りである。
「ちょ、ちょっと待て!!お前なにか誤解してるぞっ!?」
「じゃあ、どこの誰があなたに頼み事をする強心臓を持ってるって言うのですか?」
行儀悪く高遠はテーブルを乗り越えて猪川の上に馬乗りになる。
「お前もよ〜く知ってる人物だ!」
「僕も知ってる?」
この話は猪川受けなのか!?と言う緊迫感の中で猪川がさすさすさすと高遠のヒップを両手で撫でる。こういうことが出来るところが、猪川が猪川たる所以ではあるが。
ばちん!!
高遠の平手が綺麗に決まった。
「まったく、油断も隙もあったもんじゃないですね!!」
「この体制でそれは殺生って言うもんだぞ?」
「夏場は僕の許可が無ければ、Hは無し!って約束、忘れた訳じゃないでしょうねえぇ?」
そう、実はこの夫夫、年初めに「姫初め」と言う名の掛けポーカーをやらかし、勝利者のヨメからそう言う条件が出されていたのだった。この条件にたどり着くまで、猪川が幾多の案に「それは勘弁してくれ(涙)」と高遠に懇願したのは言うまでもない。
しゃ〜!と今にも毒気炎を吐き出しそうな高遠。まさに、一触即発。このままいつもの『ヒステリー気味に怒り散らすヨメに、口べたの旦那がなんとかなだめてしまえ、と奮戦する』パターンの夫夫喧嘩(笑)に突入してしまうのか!?と読者の誰もが思った瞬間、テーブルの上の猪川の携帯が鳴った。
「はい、もしもし・・・。ほれ、おまえにだ」
高遠が携帯を受け取り耳を当てると同時に涼やかな凛とした声が聞こえてきた。
『すみません、高遠さん。ここからは私がご説明します』
「あ・・・明智さん!?一体何処でいまの会話を聞いてらしたんですか!?」
『いえ、そろそろ一悶着起きてる頃だと思いまして』
明智はしれっと高遠の疑問に答える。さすが天才。不可能の文字は無いというところか?(本当か!?)
『実はですね・・・』
明智曰く、日頃お世話になった大恩人の誕生日が近いので、日頃お世話になってる感謝の気持ちを込めて高遠の作った美味しいチョコレートケーキを、高遠自身に有る場所まで配達して欲しい、と言うことらしい。
「でも、どうして僕が??」
『先日、私もあなたの作ったチョコムースをお裾分けしていただいたじゃないですか。あれはとても美味しかったですからね』
ふんわりひらり・・・。一枚の純白の羽根が、高遠の頭上に落ちてくる。
「そ・・・そんなに美味しかったのですか?明智さん」
『ええ。とても。チョコレートが大変好きな方ですので、贈り物としてあなたの作ったケーキ以上の物は無い、と思いまして』
ひら、ひらひらひらと立て続けに純白の羽根。携帯の向こう側に輝くばかりの明智の笑顔が高遠には見え・・・た気がした。
『ケーキを初めイタリアンジェラート、洋菓子に対するあなたの知識と味覚とその腕を見込んで是非ともお願いしたいのですが・・・ああ、でも、やっぱりご迷惑でしょうか?』
ほんわりふわふわと明智にお願いされる快感に酔っていた高遠は、はっと我に返り改めて携帯を握り直した。
「いいえ、とんでもない!明智さんにそこまで言って頂いては作らないわけには行きません。いえ、作らせていただきます!」
『有り難う、高遠さん。あなたならそう言って下さると思ってましたよ』
携帯の向こう側で、今度こそ明智はに〜っこりと笑って言ったのだった。さすがは明智健悟、高遠をこちょこちょとくすぐり、その気にさせるのはお手の物(笑)なのである。
『では、当日私がお届けする場所までお連れしますので、宜しくお願いしますね、高遠さん』
「ええ、ご期待に添える物が出来るように頑張ります」
『あ、それと・・・高遠さん?』
「はい?」
『お世話に成った女性、って言うのはね、猪川さんだけが[個人的に]って意味じゃありませんから。安心なさってくださいね♪』
「あ、明智さんっ、そんな事・・・」
否定の台詞を言いかけた高遠だったが、そこで携帯がぷちんと切れた。
「・・・もうっ!」
「誤解はとけたか?」
高遠が紅くなりかけた顔を上げると、携帯を受け取ろうと手を伸ばした猪川の笑顔がそこに有った。
「・・・・・・・・甲斐性無し」
ただ黙って携帯を返すのもしゃくな高遠はぼそりと旦那に悪態を付きながら携帯を渡す。
ごっとん!
あわれ、猪川の携帯はそのままリビングの床に落ちて転がった。いや、こういう『甲斐性』はない方が夫夫円満でこしたことはない、と筆者も読者も思うのだが・・・もしもし猪旦那?(笑)
高遠はそのままかたまってる猪川を置いてけぼりにし、さっさとキッチンに向かい、ぱたぱたと収納庫を開け閉めして頼まれたケーキの材料を確認する。不足分を確認し、小さなメモに名前を書き込んだものと車のキーを握りしめ、フリーズしたまんまの猪川にはい、と手渡す。
「?なんだ?これ?」
「もちろん、材料ですよ。この暑い中私に買い物に行けと言うんですか?あなたが頼んだことなんですから当然でしょ?」
ふふん、と高遠。とほほな猪川。がっくりと肩を落としたまま、着替えもしてない猪川が元来た道を玄関へと向かう。
「あ、忘れ物!」
「今度はなんだ?(涙)」
高遠は振り返った猪川の首に腕をまわし、素早く唇を合わせそのまま深く舌をからませる。
「・・・、お駄賃、です」
そう言って離れようとする高遠の細い体を猪川が捕らえる。
「駄賃には、まだ足りないぞ・・・?」
愛おしそうに笑っておりてくる猪川の唇。だがそれは、無情にも高遠の手でぱっと遮られて・・・
「はい、続きは又今度!寄り道しないで早く帰ってきて下さいね〜vなにしろこれから大至急ケーキ作らないといけないんですから!!」
そう言って高遠はに〜〜〜っこり笑ってうだる猛暑の中、猪旦那を外界へと送り出した。
翌日の午後、高遠と明智は都内某所のとある住居の前に居た。前の夜、高遠が丹誠込めて作ったチョコレートムースのケーキはドライアイス入りの豪華な箱に収められ豪華な花束と共に高遠の腕に抱えられていた。
明智は涼しげなミントカラー系のシャツにチノパン、なぜかノータイのラフな出で立ち。対して高遠の方はというと、薄いグレイのシャツにオフホワイトのスラックス。夏のちょっと改まったお呼ばれに、と言う風情だった。メッセンジャーボーイとしての装いとしては何処にも不足な所はないのだが・・・。
「・・・明智さん、聞いて良いですか?」
ドアの前、高遠がふと尋ねる。
「明智さん程、場をわきまえた方がどうして今日はノータイなんですか??」
「ああ、言ってませんでしたっけ?私はこれから用があってパーティーには出席出来ないんですよ。私は玄関で失礼しますからノーネクタイなんです」
「え?あの、僕はケーキをお届けすればいいだけでは・・・?」
「いいえ、先方がそれじゃ是非高遠さんだけでもパーティーに、と仰る物ですから」
「え?そんなこと・・・」
先方と面識のない高遠にしてみればそれは当たり前だろう。しかし、明智はそんな高遠の戸惑いなどお構いなしにさくさくと話を進めていく。
「ああ、そうだ!忘れてました」
そう言って明智は何処からともなく淡いブルーのスカーフを取り出すと、高遠の襟元にリボン結びに巻いていく。
「やはりパーティーにでるのに、ノーネクタイじゃ駄目ですからね♪」
「ですからあのですね・・・」
「あ、そうそう、高遠さん。作って下さったケーキの賞味期限っていつ頃までですか?」
「え?ええ、出来れば今夜迄には召し上がっていただきたいんですが・・・って、だから・・・」
「じゃあ、高遠さんが帰られるときに私の携帯に連絡して下さい。迎えに参りますから」
「あ?あの、明智さん、ちょっと・・・!」
荷物を抱えた高遠の脇をすり抜けて、明智が軽やかな足取りで玄関の呼び鈴を押すと、にっこりと笑って
「さ、行きましょうか、高遠さん?」
と軽く高遠の背中をぽん!と叩く。
「ですからもう、、、明智さん・・・聞いて下さい(涙)」
やがて開いたドアに高遠を先頭に二人は消えていく。
その半泣きの高遠の背中には・・・先ほど明智が軽く背中を叩いたときに張り付けたメモが有ったことを、幸いにも?高遠は目にすることは無かったのである・・・・・・・・。
『賞味期限、今夜中。おはやめにお召し上がり下さい』
*今回は鬼明智な一言。(あくまでもかんすのところの明智さん)
「高遠さん、ごめんなさい!私だって『親(創造主)』には逆らいたくないんですよ・・・(汗)」
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