「みつめいたり」






 高遠と猪川との最初の出会いは、本当に偶然の出来事だった。
 高遠が、随分と有名になった、亡き母近宮玲子の弟子達のマジックショーを見るために、はるばるやって来た日本。そこでひょんな事から猪川と出会い、一夜を共にしたのだ。そして高遠が目覚めた時、ベッドに猪川の姿はなく、サイドーテーブルの上に置かれた一枚のメモ−猪川の名前と携帯番号が走り書きしてある―――を、高遠がくしゃくしゃと丸めてごみ箱へ捨て総て終わり、の筈だった。
 ただ、男の体に染み付いた煙草の香りとその体臭は、長らく高遠の記憶の片すみに残っていた。
 それから数年後、高遠は猪川と再会した。追われる者と、追う者。犯罪者と刑事として思わぬ偶然の再会をしてしまったのだ。
 猪川はただ、高遠を見詰めて、悲痛な面持ちで“何故だ?”と問うた。
 高遠は笑みを浮かべ猪川を見詰めながら“どうして?”と答えた。

 そして、再びの肉の充足。人目を忍んで、互いを貪り合う、有ってはならない――高遠にとってはもう一人の青年との関係とは別に――答えを求めない関係が続いていた。

 高遠は気まぐれに金沢を訪れ、猪川と一夜を共にするとまたいずこへと去って行く。猪川の出張先で、高遠から連絡が入ることもあった。いずれにせよ、猪川の方から連絡を取る事は不可能だった。

 その日も、高遠は猪川の生まれ育ったにし茶屋街のとある店に来ていた。こういったお茶屋遊びの出来る店は絶対的に口が堅い。客のプライバシーは一歩街の外に出れば忘れる。それが花街に生きる者の習わしだ、と猪川は言う。ここで生まれ育った猪川の口利きの店ならなおさらだろう。

 高遠が浴衣代わりに朱鷺色の絹の襦袢を羽織ったまま、猪川に手をのばす。猪川が洒落で高遠に一度着させて以来、その肌触りの良い襦袢を高遠は気に入ってしまったのだ。それ以来、高遠がこの茶屋を訪れた時は、これを用意するのが女将の習わしになった。
 高遠は猪川の、原始の生命そのままのように熱く脈打つものにやさしく触れ、握る。そして、立ち上がりかけたそれにぎっと爪を立てた。
「痛いですか?」
 猪川はすぐには答えず、高遠の柔らかな髪をやさしく指で梳く。
「痛い。だから・・・癒してくれよ」
 高遠は、ふふ、と笑って猪川の手に導かれるまま爪を立てた所をぺろりと嘗めあげる。
 猪川の手が襦袢の裾を割って高遠にのびた。高遠もまた、熱く張り詰めかけていた。
「もうか。おまえはひどくするのが好きなんだな」
 笑いを含んだ声で猪川が言った。
「そうかもしれませんね」
「それにしては、醒めた声だ」
「十分感じてますよ」
 高遠の言葉が、嘘では無い事は猪川の濡れた指先が知っていた。
「ここも、だろ?」
 猪川の指が、高遠に分け入り、小さなスイッチを柔らかく探り出す。
 そのとたんに自分の体の奥に火が灯るのを感じて高遠は小さく身悶える。前後ろと同時に責められて、火のように熱くなった体をもてあまして、高遠が潤んだ瞳で猪川を見る。
「ずいぶん熱いな。いいのか?」
「ん・・っ」
「いや、か?」
「・・・・っふ」
 意地悪く問う猪川に、返事の代わりに軽く歯を立てる。
「つ!この・・!」
 高遠から指を引き抜き、そのまま、乱暴に体の上に覆いかぶさる。
「いいですよ、このまま・・・」
 だが。猪川はすぐに入ろうとせずに、高遠にやさしく触れる。
 高遠は、その愛撫から逃れようと身をよじる。やさしくされるのをなぜかひどく嫌がるのだ。だが、力では猪川に勝てる筈も無く、ただ声を押し殺して堪える。快楽には躊躇しない高遠だが、本当の意味で他人を受け入れるのに慣れていないのだ。
 この色街で生まれ、置屋の主人になるために十五の齢まで育てられた猪川は、そんな女達を数知れず見てきた。そして置屋の主人とは、そんな女達を癒すものだと人の心の裏表を教えられた。
 警察官の立場からすれば、常識では許されない事をしている自覚はあった。しかし、一人の人間として高遠に魅かれ、触れていたかった。自分の見ている高遠が、『素のままの自分の仮面』を被った天才犯罪者地獄の傀儡師でも、騙されている振りをして出来れば高遠の傷を癒してやりたかった。

「もう、いい・・からっ」
 高遠がせがんだ。
 まるで女のように女々しい自分の考えに苦笑しながら、猪川が高遠の中に一気に押し入る。
 強大な雄を受け入れた時の、その苦痛。そして後にやって来る、総ての隙間を埋めるような至福感に高遠は呻いた。
「痛いのか?」
 高遠はクッ、と笑った。猪川はそのがっしりとした体格からは想像出来ないような、叱られた小さな子供のような顔をすることがある。
「いいえ・・・」
「そうか」
 途端に元のふてぶてしいような精悍な表情に変わる。わたしはこの男と体を重ねることが好きなのだ。と直截的なことを高遠は考える。
 ひょっとしたら、あの。月の光りにも似た冴々とした美貌の青年よりも、と。
 高遠は、緩やかに動き始めた猪川を見上げる。がっしりとした長身の猪川の厚い胸に、すっぽりと収まる自分の体がおかしかった。そして「やり手の刑事」として、自らを脅かす存在と知りながら甘んじて受け入れる自分も。直截的に言えば、いままで寝たどの男よりも、猪川は自分に合うのだ。猪川以外の男とも関係がある高遠だが、どの男も高遠の体を特殊な体だと称賛した。女でもめったにいない、と。猪川もそんな風なことを言った。だからたいていいつも、高遠が主導権を握って相手に合わせた。
 猪川だけが、高遠のリズムの頂点に最初からぴったりと合わせる事が出来た。聞けば十二の齢から、色街の芸妓の相手をしていた事が有って、それで鍛えられたのだと言う。
 高遠は、自分の父のようにがちがちの完全主義者とは違う、どこか鷹揚とした所のあるこの男に不思議な安らぎを感じていた。一番最初に傀儡師としてでは無く素のままの自分として知り合ったからだろうか。リスキーな関係だと自覚しながら、幾度も逢瀬を重ねた。それはさながら滑稽な三文小説のようで、愚行を演じる自分を楽しんでいた。

「いの、かわさ・・」
 荒い呼吸の内から、高遠が譫言のように猪川の名を呼ぶ。
 猪川が体重を高遠に預け、耳たぶを噛むように囁く。
「もう、いいのか?」
 高遠が、猪川の腰に白くしなやかな両足を回した。
「中に、来て下さい・・・」
 呻くよう声を上げた直後、猪川が一回り大きく堅くなったのを高遠は最奥で感じた。
「あ、あ、あ・・・!!」
 世界が真っ白に弾け飛んだと同時に、高遠の奥が猪川で満たされた。
 猪川は高遠をきつく抱き締め、そして高遠もまたしっかりとしがみついたまま、ゆるゆるとした眠りに落ちて行く。

 いつの頃からか、情事のあと高遠は猪川の胸で眠るようになっていた。この無防備な寝顔さえも高遠にとっては計算された仮面の一つなのかも知れない。そんな苦い思いに苦笑しながら、猪川は天井の太い梁を見詰める。
 今度の秋の人事で本庁に引き抜かれる事が内定していた。本庁の捜査一課で、あの男の束ねる班に所属されるのだと告げたら、高遠はどんな顔をするだろうか。ひょっとしたらそのことをもう高遠は知っていて、それすらをも楽しんでいるのかも知れない。



 あとどれ位の時を、こうして共に過ごせるのだろう



 猪川のひそやかなつぶやきは、少しだけ開けた格子窓の隙間から、夜明け前の花街の空へと消えていった。
 高遠の肩が冷えぬよう、朱鷺色の襦袢を掛けてやる猪川の耳に、遠く、犀川の流れが聞こえたような気が・・・した。



















03/7/8 UP