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  高遠は、首都圏をくるくると回る電車の窓から、流れる街の景色をただぼんやりと眺めていた。
 
  初めて高遠が訪れた日本。高遠の母、近宮怜子の死後、愛弟子たちが立ちあげた「幻想魔術団」の評判のマジックを見るために訪れたこの東京。
  だが、高遠がそこで目にしたものは・・・まったく素晴らしい”偽物ーフェイクー”だった。
  幻想魔術団のオリジナルとして評判の高いマジックのほとんどが、近宮怜子が存命中に高遠に送ってきた「トリックノート」とまったく同じ内容だった。
  焼け付くような猜疑心と憎悪に駆られ、午後からの予定を放棄して、宿泊先のホテルに帰るために乗り込んだ環状線。自分が降りる駅が来ても、高遠は電車を降りることが出来ず、ただ一心に考えを巡らすことに没頭してしまっていた。
  ふと気がつけば、窓の外は夕闇。遠く、近くマンションや住宅街の暖かな明かりが一つ、又一つと灯り始めていた。

  電車の中にも昼間の時間帯と違い、仕事帰りのサラリーマンやOLの姿が目立って来た。疲れた表情の小柄なOLに席を譲り、高遠は出入り口のドアにもたれて又ぼんやりと夕暮れの街を眺め始めた。
  
 
  環状線を何周もしているうちに、激しい感情の波も収まり、自分の為すべき事が見えてきた。
  自分にとって、近宮怜子は親子の情と絆・・・というよりも、マジシャンとして道を撰んだ時から《いずれ越えゆくべき目標》として存在していた。
  それを母の弟子達が、薄汚い私利私欲のために自分から奪ってしまったのならば。何としても・・・そう、どんな事をしてでも・・・自分の存在意義を賭けて、制裁を加えなければならない。
  自分の、今までの21年の人生すべてと引き換えにしてでもーーー為さねばこれ以上進んで行くことが出来ない。


  結論は出た。為すべき次の行動も決まった。なのに高遠は激しい感情の波が去った後の、空虚な気持を抱えたまま、環状線から下りることが出来なかった。
  『帰る家(場所)の有る奴はいいさ・・・』
  昔聞いたことの有る古い歌のワンフレーズが、ふいに脳裏をかすめて、沸き上がって来る感情を掻き消すように高遠は目蓋をきつく閉じた。
 
 
 
 
  夕方の帰宅ラッシュはピークを迎え、電車の車内はひといきれで一杯になって行く。朝の通勤ラッシュとは幾分ましとは言え、高遠もまた、あふれる人込みにドアに押し付けられてしまった。話に聞いていたラッシュに少々僻易しながら、それでも高遠は我関せず、と硝子越しの夕闇を眺め続けた。
  駅を幾つか過ぎた時、高遠はふと視線を感じて何気なく後ろに立つ男に目をやった。

 背の高い、躯つきの良いその男は何故か少し、しかめっつらをして高遠の横顔を見ていた。目が合うと、男は罰が悪そうにちょっと赤くなって下を向く。
「・・・?」
  とある駅に電車が着くと、待ちかまえていた乗客が一斉に乗り込んで来て、高遠と男をドアにぎゅっと押し付ける。身長は標準だが並の男よりは躯の細い高遠は自然、男に抱き抱えられるような形で体が密着し、増えた乗客と男の体重をそのまま受けてしまった。
「痛っ!」
「あ、すみません」
  男が慌てて片方の手をドアにぐぐっと突き出して、必死に自分と高遠の間にスペースを作ろうとする。
「あ、いいえ」
  高遠も何とか体の態勢を楽にしようとして男の方に向き直る。だが、却って状況は悪くなってしまった。高遠は今度こそ男に抱擁されるような体勢になってしまったのだ。
「・・・すみません」
  今度は高遠が苦笑して謝ると男はいや、と歯切れの悪い受け答えをして、整った顔をしかめてそっぽを向いた。
 
 
  こんなに混雑した車内なのだから、少々のアクシデントはしょうがない。厭な思いはお互い様。そんなに顔をしかめなくても良いでしょうに・・・


  高遠がため息混じりに思っていると、満員の電車がカーブで大きく傾いた。自然、高遠と男の体もより一層密着する。
「!?」
  高遠の腰に、男の堅い一部が触れた。もっと良く確かめる為に高遠がそしらぬ顔で足を男の股間に押し付けた。
「!!」
  男が、驚愕といったような表情をして高遠を見た。
「すみません」
  申し訳なさそうな顔をして高遠が男を見上げる。


  やっぱり・・・この男・・・生まじめそうな顔をしてよくも・・・

  高遠が内心怒りに燃えながらもにっこりと男に笑い掛けると今度こそ男は真っ赤な顔をしてうつむいてしまった。
「すまん・・・その、わざとじゃないんだ・・・」
  ほとんど消え入りそうな声で男が謝った。大きな図体に似合わぬ、叱られた子供のような顔の男を見て、高遠の怒りは薄れ、反対に男に対して興味が沸いてきた。

  空虚なこの気持を、行きずりのこの男との時間で埋めると言うのもいいかも知れない。

  次の駅に電車が滑り込み、もたれていたドアが開いた瞬間、男の腕をつかんで高遠は電車を降りた。




「すまん、本当に悪かった。自分でも良く分からないんだ、その・・・」
  名も知らぬ駅に降り立ってすぐ、男は高遠に謝った。
「僕を見て、勃ってしまったことですか?あなたそっちの方の人間じゃないんですか?」
「い、いや!今まで一度だって男にそんな気が起こった事なんて・・・」
「でも、どうしてだか僕を見てその気になってしまったと?」
「その気に・・・と言うか、勝手に反応しちまったんだ。本当にすまん」
  神妙な顔をして頭を深く下げる男を見て、高遠はこの男には本当にそっちの気は無いのだろうと思った。くすりと一つ笑って高遠は男に言った。
「もういいですよ。男同士ですから、訳もなく反応することだって有るって解ります」
「そう言ってくれて助かった。そうだ、時間が有ったら詫びに一杯驕らせてくれないか?」
  男がほっとした様子で高遠に切り出した。
「そうですね・・・どうせ驕って下さるなら、ホテルの方がいいですね」
  高遠がにっこりと笑って男に言う。
「僕はそっちの方の人間なんですよ。あなたは中々僕の好みなんです。どうです、試してみませんか?」
  男が絶句したような顔で高遠を見た。




  構内から駅前のビジネスホテルまでの間、男は始終しかめっつらで恐い顔をして、黙って高遠の後を着いてきた。
「お先にシャワーを使わせて貰いますね」
 と高遠が声を掛けた時も、男は押し黙ってベットに腰をかけたままだった。


    さてと・・・一体どう出ますかね・・・?


  心地よいシャワーの飛沫を浴びながら高遠は考えた。高遠は男がこのまま黙って帰ってしまっても良かった。帰ってしまったのなら意気地の無い奴だと笑ってやれば良い。事に至ってしまうのならそれで鬱憤を晴らしてしまえば良い。
  今の空虚な気分を紛らせる事ができればどちらでも高遠は良かったのだ。

  高遠がシャワーを浴びて戻った時、男はまだベットに腰掛けていた。高遠は内心、度胸が有るじゃないかと感心しながらバスローブを羽織ったままで男の隣に腰をかけた。
「シャワー、浴びないんですか?まあ、僕はどっちでも良いのですが」
  高遠の重みでベットがキシリと小さく鳴った。
「あんたは・・いつもこんな風に男を誘うのか?」
  男が険しい顔を上げて高遠を見た。
「さあ…どうでしょうね?」
  高遠はくすくすと笑いながら男の首に両腕を廻して挑発する。その手を男が素早く捕らえてそのまま高遠の体を引き倒す。
「・・・ふざけるな。俺はこれでも人を見る目には自信があるんだ。あんたはこんな風に、餓っついて男を漁るような人間じゃ無いはずだ。俺をからかって遊んでるのか?」
「・・・乱暴なのは嫌いなんですけど・・・」
  男の身体の下で高遠が苦笑した。
「からかって遊ぶ相手を捜しているなら、悪いが他の奴を当たってくれ」
  無然とした表情で出ていこうとする男の背中に高遠が声を掛けた。
「じゃあ、あなたはどうして僕を誘ったのですか?たまたま乗り合わせた電車の中で、訳も分からず反応してしまって、焦って。僕がそう言う種類の人間だと言ったから下心有りで僕の誘いにも乗ったのでしょう?」
「・・・否定はせん。正直に反応しちまったのは事実だからな」
 男は高遠に背を向けたまま続ける。
「満員の乗客の中で、隣になったのは本当に偶然だ。あんたを見た途端・・・目が離せなくなっちまった。なんで野郎なんかに見とれておっ勃てなけりゃならんのだと自分に腹も立った。どうしてあんたに魅かれちまうのかその訳が知りたくって、あんたを知りたくって・・・飲みに誘った」
「だから、あわよくば僕とこう言う関係になりたかったのでしょう?なら、手間が省けて良かったじゃないですか」
「・・・俺が知りたかったのは、そんな風に偽悪的に振る舞って見せて、これ以上自分を傷つけたがっているあんたじゃない」
「傷つけたがっている?僕が自分を?」
「俺が見たあんたは・・・『何か』にとてつもなく深く傷ついてるように見えたんだよ。だからなんとなく気になって目が離せなくなっちまったんだ」
  高遠があははと可笑しそうに笑った。
「それであなたはご親切にも僕が自殺でもするんじゃないかって心配して、僕が誘うままにホテルまで着いてきて下さったって訳ですか。でも、お生憎様でしたね、ご覧の通り僕はあなたが思ってるようなナイーブな人間ではありませんよ」
  男が、尚もくすくすと笑い続ける高遠を不機嫌な顔で振り返る。
「男と寝る現実を突き付けられて、恐くなって逃げ出すのでしょう?なら、さっさと出ていって下さい」


  元々どちらでも良かったけど、からかって遊ぶには少々聡い人間だったようですね・・・


  高遠は、名も知らぬ行きずりのこの男に、自分が抱え込んだ心の闇を少しだけ見透かされたような気がして、薄い唇を軽く噛みしめた。
  男の言う通り、からかって遊ぶなら他をあたった方がよさそうだと高遠が思った時、男がベットに近づき、投げ出されていた高遠の腕を掴んで引き起こした。
「痛っ!なにを・・・」
  逃げようとする高遠の体をきつく掻き抱き、男が深く、噛みつくように口付けた。とっさに顔を背けようとする高遠の細い顎をとらえて、逃げようとする柔らかな舌をきつく絡めとられる。
「んっ!・・・っふ・・ん、う・・・」
 煙草の香のする口付けに、吐息のすべてを吸い取られるかと思った時、男が唇を放した。
「・・・あんたの挑発に乗ってやってもいい。一時の肉の快楽で傷痕を埋めるつもりなら、俺をあたえてやる。だが、そんなことで本当にあんたの傷は癒えるのか?」
 まっすぐに高遠を見つめる男の瞳には、同情も哀れみの色もない。ただ高遠の心の深い場所に問いかけて来る、そんな真摯な眼差しだった。
  ふいっと視線をはずした高遠の言葉を、男は待った。
「・・・傷を癒すつもりなんて、はなっからありません」
  長い沈黙のあと、やっと一言だけ苦い思いと共に高遠は吐き出した。   
「俺は・・・なおざりに抱くような器用な事はできん。男を抱いたことも無い。あんたを壊しちまうかもしれん・・・それでも良いか・・・?」
  答えのかわりに、高遠は男を引き寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。




  それから。
  夜が明けるまで、互いに快楽を貪り合った。


  渇いた大地に水が染み込むように、高遠は何度も男に満たされ、男も飽く事なく高遠に己を注ぎ込んだ。
  幾度目かの頂点を迎えようとした時、不意に高遠の瞳からひと雫の涙がこぼれ落ちた。   
  拭おうとする高遠の細い指を男の無骨な指が絡めとりシーツに押し付ける。
「・・・そのまま、泣いちまえよ・・・」
  次から次へとこぼれ落ちてくる雫を愛おしそうに舌で嘗めとりながら男は言った。
「あ・・あ!あああ・・・!!!」
  男の熱い胸に泣きじゃくりながらしがみ付いて、高遠は灼熱の白い闇の中に意識を手放した。




  高遠が目覚めた時、ベットに男の姿は無かった。気だるい体を起こすと、鈍い痛みと共に昨夜からの男の名残が体内からシーツに流れ落ちた。傷む頭を起こした高遠の目に、サイドボードの上の白いメモが映った。
  メモにはたった一言。男の名前と携帯の電話番号が記されていた。サイドボードの横の屑篭には、丸めたメモ用紙がいくつか入っていた。多分、何度か書き直したのだろう。
  高遠は、メモ用紙に書かれたどこか無骨で温か味のある文字にもう一度目を落とす。

  猪川将佐・・・それが男の名前。

  暖かくて優しい男だった。力強く熱い胸に抱いて、自分を癒してくれた。あの男ならば、自分の抱え込んだ闇をも温かな光で包み込み、そのうちに充たしてしまうだろう。


  このまま、あの胸で癒されることが出来たら。
  でも。
  自分はもう、進む道を撰んでしまった。


  手の中のメモを、くしゃりと丸めて屑篭に放り、男の名残をーーー男への感情を洗い流すために、高遠はゆっくりとバスルームに向かった。