紅い花の島









とろりとした星もない夜だった。

 かわりに紅くさけた口の様な三日月だけが、海面の白い波を照らしていた。

 水面に浮かぶ小さな手こぎの船 ―――この、本土から遠く海を隔てた琉球地方では“サバ二”と呼ぶのだが――― の上には人影が、二つ。

 とある島の島主の息子であるはじめと、オランダからの貿易船の通詞である健悟の二人は、とうに櫂も流してしまった小舟の上で寄り添いながら暗い海を彷徨っていた。
 聞こえるのは互いの吐息と小舟に当たり砕け散る波の音だけ。瞳は闇を見つめ、ただ無言で、けれども互いの手をしっかりと握り合いながら、遥か彼方に有るというニライカナイを目指していた―――








 健悟を乗せた貿易船が長崎の出島を目指してオランダを出航したのは一年前。そして目指す日本の近海で嵐に遭遇し、あえなく貿易船は沈没。健悟を含め生き残った十数人の乗組員達はとある島に打ち上げられ、島主にその島への滞在を許可されて島の優しい住人に暖かく受け入れられた。
 そこで、健悟とはじめは出会った。
 事態の収拾のために数人の乗組員が本国の出先機関のある出島へと向かった。が、通詞である健悟は残る数人の乗組員の為に島に残され、出島には上海から乗り込んだ李と言う多少日本語が話せる中国人の航海士が付き添う事になった。出島に向かうとは言っても琉球本島に立ち寄る本土の船を待ってのことなので、出島からの返事を持って帰って来るには3〜4週間が必要と思われた。
 出島からの使いが戻るまで健悟達は島主の館の一角に世話になることになった。そこで健悟は世話役として、島主の息子であるはじめと引き合わされたのだ。
 黒曜石に輝く利発そうな黒い瞳と夜の帳を思わせるような漆黒の長い髪を頭上に束ねた少年は、未だ見ぬ南海の真珠のように美しく聡明な健悟に一目で恋をした。健吾も又島に滞在する期間、はじめにオランダ語を教える時間の中で、日本人の母とオランダの上流階級であった父とのハーフである自分と同じ様な境遇―――少年の母は琉球人ではなく本土の人間だった故に、島主の第一子にもかかわらず島主を継ぐことが叶わず、成人後島の外に出なければならぬ事―――にめげず、屈託のない明るさと強靱な意志で前を見つめる強さに惹かれ少年に恋をした。
 はじめに月を見に行こうと誘われた東の岬で、二人は互いの思いをうち明け合い、潮風と満月の光の中で愛し合った。
 二人で過ごす時間は長い間彷徨い、やっと探し当てた宝石の様な時間だった。出島からの使いがこのまま帰ってこなければ良いのに、とまで二人は願った。
 だが、出島からの使いが帰って来る前に二人の仲は島主の知るところになり、健悟はひとり、島主の館から離れた東屋に軟禁されてしまった。
 2日程たった嵐の夜、健悟が軟禁されている東屋にびしょぬれになったはじめが尋ねてきた。頭上で束ねていた長く美しかった黒髪を肩でばさりと切り落として、粗末な衣服を身につけたはじめは父親に、そして島と決別してきたのだ。いずれは決別するのなら、今夜、健悟と共に生きるために館を抜け出して来たのだという。健悟ははじめの情熱が嬉しかった。自分とて、このままはじめと離ればなれになってしまうことは耐え難かったのだ。
 二人になって初めて互いに今まで本当の意味でひとりぼっちで立っていたのだと気づいた。気が付いてしまったら、もう一人には戻れない。困難な状況ではあるが、ひょっとしたら琉球本島に停泊中の外国船に乗せて貰えるかもしれない。
 一縷の望みを掛けて、追っ手が来る前に二人は嵐の海に小舟を出した―――――


 小舟は嵐の海を木の葉のようにさんざんに翻弄され、高波の上から波の底に叩き付けられ、櫂も流されて二人は為すすべもなくそれでも二人は必死で船に掴まり、手を握り合い嵐の通り過ぎるのを待った。


 ふと気が付けば、いつの間にか嵐は止み、かわりに紅くさけた口の様な三日月だけが、海面の白い波を照らしていた。櫂は流してしまっていたし、小舟は潮の流れに乗って南へと流されて居るようだった。
“このまま、南に流されて行ったら本当の楽園にたどり着けるのかな・・・”
“本当の楽園?”
“うん、ニライカナイって言う楽園があるんだって。そこでは飢えることも無く、争いもなく誰も彼も幸せに・・・ただ幸せに暮らして行けるんだって・・・”
 
 それは・・・そこは、この世ではない・・・所。健悟の国で言うところの・・・天国。

“行って・・・見ましょうか?ニライカナイへ”
“行こう。ニライカナイへ。二人ならどこだって怖くないよ”

 そうして二人、小舟の中で抱き合いながらニライカナイを目指した。
 
 聞こえるのは互いの吐息と小舟に当たり砕け散る波の音だけ。瞳は闇を見つめ、ただ無言で、けれども互いの手をしっかりと握り合いながら、遥か彼方に有るという本当の楽園を目指した。




 どのくらい暗い海を彷徨ったのだろうか。寄り添いながら二人は、そのうちに心地よい睡魔に意識を海の底まで持って行かれようとしていた。
 意識が闇に落ちる前、暗い海の底から眩しい太陽のような光の柱が立つのを、健悟は見たような・・・気が・・・した―――――








 気が付けば二人は、白い砂浜に打ち上げられていた。そこは、この辺りの島のことならすべて把握しているはじめにさえも解らぬ島で無人のようだった。島の周囲は白い珊瑚礁の遠浅で囲われて、そこには不思議なことに、魚一匹、貝一粒も生き物の気配は無かった。
浜辺の有る場所からは綺麗な小さな川が海に流れ込んでいた。二人はその小川の流れで乾いたのどを潤して、流れに沿って川を遡ってみることにした。
 小さな川の入り口には南国特有の大きなマングローブが数本、悠久の時を抱いて生い茂っていた。10分ほど歩くと、島の中心と思われる所に小さな、けれども滾々と清水を湛える泉があった。二人はその場所に落ち着く事に決めた。
 二人は泉のほとりで十分に憩い、存分に愛し合い、語り合った。そのうち、二人は妙なことに気が付いた。いくら時間が経っても空腹を覚えることもなく、またいくら経ってもその島は日が沈むことがないのだった。
 この辺りどんな無人島でも野性の果物などが有るはずなのに、果物はおろか、やはり海にも生き物の気配が無いのだった。
“ひょっとしたら、ここがニライカナイなのかもしれないね”
“私はここに着く前に、海の底から不思議な光が立ち上るのを見ました。ここは・・・ここがそうなのでしょうか・・・?”
“そうなのかも。・・・ねえ、健悟さん。ずっと・・・ずっと一緒にいようね”
“ええ、ずっと、一緒にいましょうね”
 泉のほとり、大きな木の木陰で二人は裸で笑い合いながら優しい眠りに落ちていく。
 



 健悟が眠りから覚めた時、寄り添って眠った筈のはじめの姿は無かった。奇妙な不安にかられ、健悟ははじめの名前をつぶやいてみる。
“ここだよ、健悟さん”
 見るとはじめは泉に足を浸している。
“どうしたの?暑い・・・のですか?”
“ううん、暑くはないんだけど・・・なんだかこうしたくなって・・・”
“目が覚めたら海に体を洗いに行くんじゃなかったのですか?”
 はじめはしばし考えるようなそぶりを見せて、健悟に一人で行くように告げた。健悟は仕方なく一人で海辺に行った。
―――――思えば、それが異変の始まりだった。


 健悟が海から戻って来ても、はじめは泉から上がろうとはしなかった。よほどそこが気に入ったのですね、と言う健悟に、はじめはふわりと笑って見せ、微笑んだまま瞳をふせた。健悟はそんなはじめのそばに寄り添って“しょうがないですね”と笑い浅い眠りに落ちた。


“健悟さん・・・健悟さん?”
 夢の向こう側からはじめの呼ぶ声で健悟は目覚めた。
“どうしたのですか?はじめくん”
 目を開けはじめを見た健悟は、その綺麗な瞳を驚愕に大きく見開らいた・・・


 花が。
 はじめの、黒髪から小さな紅い花が。
 いくつも蕾を付け次第に咲いているのだ。


 言葉もなくただただはじめを見つめる健悟。その手をそっとひきよせてはじめは白い指にくちづける。
“起こしてごめんね、健悟さん。俺・・・もうすぐこの姿で居られなくなりそうだから、この姿のうちにちゃんと伝えたかったんだ”
“な・・・にを、いってるんですか!良いから泉から上がりなさい!”
 驚愕に我を忘れ、泉から引き離すために健悟ははじめの腕を引っ張った。が、泉に浸されたはじめの足は渾身の力で引っ張ってもびくともしなかった。
“・・・ごめんね、健悟さん無理だよ。だって・・・”
はじめは健悟の手を、泉の中に浸した足先に導いた。
導かれた手に触れる感触はやわらかな皮膚の感触ではなく・・・植物の木の根の感触だった。
“―――――――――――――!!!”
 健悟の声にならない悲鳴。そして健悟は狂ったようにはじめの髪に咲いた紅い花をむしり始めた。だが、花はむしられた後から新しい蕾を着け、開いていく。
“こんな・・・こんな事って!!”
“だから・・・ごめんね、健悟さん”
 はじめは、健悟におだやかな表情でこれから花の木になるのだと告げた。
“・・・俺、この島に着いたときから気になってたんだ。ここには花が一つもないでしょ?だから・・・ああ、俺が花になるんだなって”
“いや・・・いやです、はじめくん、私をひとりぼっちにしないで下さい!!”
“ひとりぽっちじゃないよ。人ではない物になってしまうけど、これからは俺が健悟さんがここで休むときに気持ちのいい日陰を作ってあげられる。花を咲かせて健悟さんの飲む蜜を作ることだって出来るし、木の実も作って上げられる。いつもそばにいるよ・・・”
“そんなの、私はいりません!!君が、君で無くなってしまうなんて・・・!!そんなのは嫌です!!・・・私を置いて行かないで下さい!!”
 はじめを抱きしめたまま健悟は泣きじゃくった。はじめも健悟をいとおしそうに抱きしめ、優しく髪を梳いてやる。
“君の居なくなるここは、ニライカナイなんかじゃない・・・”
 そう言いもって、しゃくり上げながら健悟ははじめの紅い花を腹立ち紛れにぱくりと口にする。花は、とろけるように甘かった。一つ、又一つとはじめの花を口にすると、抱きしめたはじめの体がわずかに身じろいだ。
“健悟さん・・・なんか、凄く、気持ちいい。俺の花が、あんたに食べられるのって、凄く、感じる・・・”
 うっとりとした顔ではじめが言う。
“はじめ・・・くん・・・”
健悟は、涙に濡れた顔ではじめを見る。
“君の花は・・・とても甘いんですよ・・・”
 そう言って健悟は、唇で摘んだ花をはじめの唇に差込み、そのまま深く深く口づけた。“ほんとだね・・・でも、あんたの口の中は、前から甘いから・・・解らないよ”
“もっと・・・?”
“うん、もっと・・・して。”
 健悟は、性急に口付けを交わしながら自らの衣服を解いた。こんな事になってしまっても、互いに互いの熱を欲した。・・・これが最後の情交だと、解っていたから・・・
 動けないはじめに言われるまま、健悟ははじめの上にまたがった。互いの熱を擦り合い、はじめが指で健悟の後ろをほぐしていく。
“あ・・・あぁ・・は、じめくんっ”
 ほぐす指は、離すものか、とでも言わぬばかりに健悟に締め付けられ、はじめは苦笑を漏らす。
“もう少し、力を抜いて?ここで、俺を柔らかく抱きしめて・・・”
 そういいつつ、目の前の桜色に染まった胸の、紅い飾りに軽く歯を当てる。
“は・・・っ、あ、ああ、はじめ・・・はじめ・・っ”
 健悟は夢中ではじめの高ぶりを入り口にあてがい、そのままずず、と奥に迎え入れる。
“あ!ああ!!あ・・・”
  待ち望んだ熱いくさびに健悟は身もだえ、歓喜の、そして・・・これから起こる別離を思い涙を流した。
“はじめ・・ああ、あ・・はじめ!一人にしないで、私を置いて行かないで・・・!!”
“大丈夫、だから・・・俺は・・ここに居るよ。あんたの、そばに・・・”
愛してる・・・愛してる・・・愛してる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 やがて
健悟は達っし、
 はじめもまた 健悟の中に
 最後の 精を 吐き出した・・・・・・


 健悟がけだるい眠りから目覚めた時、今度こそ愛する少年の姿はどこにもなく、代わりに泉のほとりに・・・若々しい花の木が立っていた。その木は、慈しむように、なだめるように健悟の頭上にはらはらと紅い花を降らせた。
 健悟は、黙ったままその紅い花を見つめ・・・少年の分身とも言えるその甘い花を食べ始めた。食べれるだけ食べ、健悟は少年がそうしていたように泉に足を浸し、花の木の下で・・・長い眠りに落ちた。







 長崎の出島に出かけていた李がオランダ領事館から帰国の手だての知らせを持って島に戻ったのは、健悟とはじめが島を出た10日ほど後の事だった。事件を知った李は、島主に詫びた後、とうに生きては居ないだろうと沈痛な面もちの島主を、せめて遺体だけでもと説得し、健悟達を探すことにした。
 中継港の上海から乗り込み、過ごした時間は短かったものの、同じアジアの血が流れている親近感もあって、李と健悟は互いに友と呼べる間柄だったのだ。
 隣の島の漁師から、とある無人島に打ち上げられた壊れた小舟の事を聞き出した李は、その漁師を伴ってその島に行ってみることにした。
 珊瑚礁に囲まれた小さなその島の浜辺には、確かに小舟が有った。だが、小さなその島には李の求める健悟達の消息を示す物は何も無かった。
 ただ、島の中央あたりに、一本の木が根別れして絡み合った見事な花の木が有った。漁師の記憶違いでなければ、この島には一本も花の木は無かった筈なのだが・・・


 李は、木の下に立って紅い花を見上げながら、
“健悟・・・?”と、呟いてみた。




 紅い花は、海からの涼風をうけて、ほんの少しだけ枝を揺らし、また素知らぬ顔をして見せた。