雨の檻


 

 静かな雨音が、止むことのなく規則正しいリズムを刻む。
 その密やかなまでの音色に覚醒を促された猪川は、見慣れない天井に一瞬自分が何処にいるのかを忘れ、慌てて上体を起こした。
 途端に、くすくすという揶揄うような笑みが、少し離れたところから聞こえてきた。
「おはようございます。昨夜はよく眠れたようですね―――お互いに」
 意味ありげな視線を向けて言う青年に、猪川はその精悍な眉を僅かに歪める。
 よく見知った、だが今自分の前にいていいはずのない人物が、気怠げに雪見格子に凭れている。
 猪川は昨日の出来事が夢や質の悪い冗談、ましてや願望が見せた幻などではなかったことをあらためて認識した。


 猪川の元に差出人の名のない封書が届いたのは、一週間程前のことだった。
 なかにはG県の温泉街にある、客室がそれぞれ単独の棟になっていることで有名な高級旅館への地図と、短い手紙が入っていた。

  『親愛なる猪川警部殿
     雨の季節の間、こちらへの滞在を予定しております。』

 これを見て、真っ先にある青年の姿を浮かべた猪川は、すぐさま本庁に連絡し彼の所在を確認した。しかし本庁からの返事は、彼は間違いなく拘置所にいるというものであった。
 何かの間違いか悪戯の類だと思いながら、予感めいたものを捨てられなかった猪川は、取り掛かっていた事件を急ぎ片付けると有休をもぎ取り、このG県へと来たのだった。
「お待ちしていました、猪川警部」
 旅館前の石段から声を掛けてきたのは、やはり猪川が思っていた人物だった。
 ―――高遠遥一。
 自ら『地獄の傀儡師』と名乗るその青年は、奇術を使いその名の通り多くの凄惨な事件を操ってきた。
 そして刑事と犯罪者という立場でありながら、彼は猪川と情人関係を結んでいた。
 きっかけは一夜の戯れ。
 ある事件で高遠と知り合った時、彼は魔術団のマネージャーをしていた。後にその魔術団は彼の復讐劇の舞台となるのだが、その時の猪川にそれを知る術はない。だが刑事としての本能か、猪川は彼から何か強い闇の気配を感じていた。だからこそ高遠に興味を持ち、元々その気はないにもかかわらず、男を抱こうという気になったのかもしれない。
 だが、とにかくそれは一度限りの関係のはずだった。
 あの不意の再会さえなければ……。
 理性の警鐘を無視して関係を重ねた理由は、今も猪川にはわからない。強いて言えば、猪川を喜ばせるだけの技巧とその蹂躙に耐えうるだけの体力を持つ躰に未練があったといえるのかもしれない。
 だが、そんな曖昧で反道徳的な二人の関係も、高遠が香港で起こした事件で二度目の逮捕をうけたとき終わったはずだっだ。
 今まで高遠が犯した犯罪は数知れない。その内の幾つまで起訴に持ち込めるかは検察の手腕にかかっているが、重い刑罰が処されることは明らかだった。
 以前高遠は彼自身の復讐劇において、高名な探偵を祖父にもつ高校生の手によって警察の手に落ちたことがある。だがその時、彼は看守の目を逃れ易々とその姿を署内から消したのだった。そのことがある以上、警察側の対応も生半可なものではなかったはずだ。
 二度目の脱走はあり得ない、高遠と会うことは二度とないだろう。
 そう思い込んでいた。
 だが―――。
 石段の上から猪川を見下ろすようにして、高遠は婉然と微笑んでいる。
 自分が来ることを少しも疑ってもいなかったようなその笑みに猪川は苛立った。
「どうしてお前がここにいる?お前が本物の高遠なら、拘置所にいるのは誰だ?」
 怒鳴る猪川に、高遠が揶揄を含んだ笑みを浮かべる。
「久しぶりにお会いしたというのに…。相変わらず無粋な人ですね…」
 そう言い視線で猪川を促すと踵を返す。猪川は慌てて彼の後を追った。
 フロントや大広間がある本棟を囲む回廊からは、いくつかの渡り廊下が延ばされており、そこから各棟が繋がっていた。
 猪川が通されたのは、おそらく高遠が宿泊しているのだろう、見事な紫陽花に囲まれた棟だった。
 数寄屋造りのその室内には、調度品や掛けられた掛け軸など、素人目から見ても素晴らしいものが置かれている。そして高遠はまるでここの主人であるかのように、ゆったりとした仕種で雪見格子の前に立っていた。
 薄給の猪川には一生縁がないような旅館に、どうして犯罪者である高遠が滞在できるのか。
 理不尽さに知らず猪川の顔が歪む。
「また、つまらないこと考えているでしょう?」
 ますます仏頂面になる猪川に、楽しげに高遠が言う。
「つまらないことか?」
「ええ。それこそ今更、でしょう?」
「確かにな…」
 今回に限らず二人の逢瀬の場所は、ほとんど高遠が指定していた。そしてそれらの場所は、いつもハイクラスなところばかりだった。
 犯罪者である高遠が、客のプライバシーは徹底して守るという姿勢を取っている場所を選ぶのは当然といえるだろう。そして猪川は宿泊や食事といった、俗にいうデート代というものを支払ったことは過去一度としてなかった。
 猪川は胸中に湧く苦いものを殺し、目の前に悠然と立つ高遠を見据える。その剣呑な眼差しに、今まで多くの犯罪者達が戦き、罪を晒していった。
 だが高遠は平然とそれを受け止めたばかりは、足音も立てず猪川に近づくと口づけを奪った。
「さっきの質問に答えるのが先だ」
 高遠の両肩を掴み自分から離すと、猪川は普段よりも更に低い声音で言い放つ。
 だがその声が情欲に微かに掠れていることに気づいた高遠は、喉の奥で低く笑った。
「つれないこと言わないで下さいよ。貴方はどうか知りませんけど、私はずっと禁欲生活を送ってたんですから」
「高遠…!」
 猪川の制止を無視すると、高遠は再び男の首に腕を回し口唇を重ねた。
 歯列を割り入り込んできた舌が、素早く猪川のそれを捕らえ深く絡める。
 イニシアティブを取られたことが面白くない猪川は、きつく高遠の躰を抱き締めると主導権を取り戻すかのように荒っぽく、ときに繊細に口づけに答えた。
「どうです?私を満足させてくれたら、貴方の知りたいことに答えるというのは?」
 口づけの合間に、唆すような高遠の声が耳をくすぐる。
「本当だろうな?」
「約束しますよ、猪川警部」
 犯罪者の約束など当てになるものか、と胸中で毒づくが、欲望が走り始めた以上、猪川の方も高遠の条件を飲まないわけにはいかなかった。
 同意の返事代わりに、猪川は乱暴に高遠を押し倒した。
 高遠は少し笑うと首を伸ばし、再び口づけをねだる。それに答えながら猪川は高遠のベルトを外しシャツを引き出すと、裾から忍び込ませた手で脇腹を撫でた。すると、その下の肌が微かに震えるのがわかった。
「禁欲生活が長かった、っていうのは本当みたいだな」
「ええ…。ですから、あまり焦らさないでもらえると嬉しいのですが」
 ズボン越しに触れ合う下肢は確かに熱を帯びているのに、聞こえる声は淡々としたものだ。だが猪川は、それが熱い吐息混じりのものに変わる瞬間を知っている。
 もう二度と、聞くことはないと思っていたが―――。
 高遠の指先が器用に猪川のシャツのボタンを外す。そのまま縋るように背中に腕を回され、猪川から最後の理性の箍がとんだ。
 雪見格子から漏れる明かりが次第に落ちてきて、空気に雨の気配が混じる。それと比例するかのように、高遠の口唇からは密やかな喘ぎと睦言のような嘘が零れていった。
 そうして夜更けにまでおよんだ行為の後、二人は甘い恋人達のように互いの体温を傍らに眠りについたのだった。


 飢え―――とでもいうのだろうか…。昨夜の行為はいつもにもまして獣じみていたと、猪川は自嘲の溜息を無意識に吐く。
 躰に残る独特の気怠さと充足感が、気分をさらに重くしていった。
 それは高遠を抱いたことへの罪悪感などではない。そんなものはとうに捨ててしまっていたし、捨てきれないなら、こんな馬鹿げた関係こそさっさと終わりにしていただろう。
 高遠の逮捕以来、猪川のなかで形を成さず燻ってきた感情。
 昨夜の行為は、それを最悪の形に成して猪川に叩きつけた。
 手紙を受け取り、それが高遠からのものではないかと思ったとき、真っ先に猪川が感じたのは―――喜び、だった。
 だが猪川はそれを、一人の刑事として大きな犯罪者を自らの手で捕らえるチャンスが残されているのだという、全く別のモノにすり替え誤魔化した。
 そうでないと気づいてはならない―――気づきたくない自分の裡の何かを、直視する羽目になりそうだったから…。
 だが結局はここに来て、高遠を抱いてしまえば同じことだった。
 突きつけられたのは、目の前にいる凶悪な犯罪者への恋情。
「最悪、だな…」
 小さな呟きとともに漏れる溜息は、鉛でもぶら下がっていそうなほど重い。
 高遠はそんな猪川の様子を、めずらしく揶揄いもせずに見ていた。
 その顔色にはいつもの精彩がない。眼の下に薄く掃いたような影を落とし、形ばかり浴衣を纏った躰をしどけなく雪見格子にあずけている。
 あきらかに情事の余韻を色濃く残しているその気怠げな様子は、見慣れているはずの猪川が言葉を失うほどの色香があった。
 『なぜ、俺と寝る?』
 猪川は以前、一度だけそう尋ねたことがことがあった。
 高遠は、彼にしてはめずらしく僅かに驚きの表情を浮かべた後、いつものような意味ありげに微笑んだ。そして「きっと、貴方と同じ理由ですよ」と楽しげに言ったのだった。
 見た目の印象ほど高遠は脆弱ではない。むしろ精神的にも体力的にも、並の者よりよほどタフだといえた。
 そしてそれは、ベッドの上でもいえることだった。
 場数は猪川以上に踏んでいるのかもしれない。誘い方も技巧も、高遠のそれは今まで知っている誰よりも淫らで、猪川の欲望を激しく煽った。
 男女問わず幾多の者がそうした高遠の躰に溺れ、その肉の快楽に堕ちていったのだろう。次の逢瀬の約束を請い、無様に足許に伏す。情人のそうした執着を利用して今まで――そしておそらく今回も、高遠が危機を逃れてきたことは容易に察することができた。
 猪川自身、自分のテクニックに自信がないわけではない。
 ただ、柔らかい女の躰を思う様に抱くことには、自分の体格、体力その他諸々を考えるとどうしても遠慮があった。
 女性の美しく磨かれた肌の感触や上品な香水の香りは、それなりに猪川の欲望を満足させてくれたし楽しめた。猪川に遠慮がある以上、どうしても女性重視の行為にはなるが、特にそれが不満なわけでもない。確かにどこか不完全燃焼気味な感覚が常に残っていたことは否定できないが、セックス自体がそうしたものだと猪川はいつしか思うようになっていたのだ。
 だがそれも、高遠を抱いたことで大きく変わった。
 高遠は女にはない強靱さをもって猪川の責め苦に耐え、しかもそれ以上のものを返してきた。深く入り込む腰に蠱惑的な仕種で脚を回すと、放埒な喘ぎで猪川を惑わす。引きずられまいと手を下肢にのばせば、高遠も口唇で猪川の肌を煽った。
 まるで意地の張り合いのようなセックスは、信じられないくらい猪川を夢中にさせた。
 手のひらに散った高遠の欲望の残滓に征服欲を刺激され、受け止めた猪川の欲望のあまりの激しさに意識を失ってしまった高遠の無防備な姿に愛しさを感じた。
 あの不意の再会でも、誘ったのは確かに高遠だったが、社会的に自分と対局にいる者だと知りながらもその誘いを受けたのは、まぎれもなく猪川自身の意志だった。
 欲望だけの関係だと思っていたが―――。
 多分、出会った最初から彼に惹かれていた…。
 だからといってそれは、猪川にとって何の意味もないことだった。想いを口にするつもりもない。
 高遠のために闇に堕ちるつもりは猪川にはなかった。
 彼を抱いても、刑事としての自分を売るような真似は決してしない。だからこそ猪川は高遠と対等に躰を重ねられるのだ。
 高遠にとって猪川の価値は、彼が刑事であることではない。ただ、猪川が猪川自身であることに価値があるのだと―――。
 事実、高遠に警察内部の情報を求められたことは一度もない。
 もし、情報を餌に彼の独占を求めたら…?
 答えは容易に予測できた。
 堕ちた猪川を、高遠は気まぐれに誘い、気まぐれにその躰を与え、散々利用するだろう。そして―――決して心を許さない。
 矛盾だと呆れるが、対極の立場だからこそ高遠との関係は成り立っているのだと思わずにはいられなかった。
 刑事と犯罪者。追う者と追われる者。
 最初から《裏切り》などという感傷的なもののない関係。
 それを求める―――そうでないと心安らげない青年を、猪川は哀れに思わずにはいられない。勿論彼は、そんな同情は必要ないと突っぱねるだろうが…。
「どうしたんです?渋い顔をして…。昨夜の私は、それほど良くなかったですか?」
 すっかり自分の思考に捕らわれていた猪川は、高遠の揶揄うような声に現実へと戻された。その謙遜めいた台詞とは正反対に、猪川の懊悩などすべて見透かしたような笑みを浮かべている。
「そういうお前はどうだったんだ?」
「…言葉での答えが必要ですか?」
 そう言って気怠げな仕種で前髪を掻き上げる高遠に、猪川は喉の奥で笑う。
「なら、答えろ。今、拘置所にいるのは誰だ?」
「―――彼が誰かを、貴方が知る必要はありません。たとえ聞いたとしても貴方はわからないでしょうし…」
「それじゃ答えになってない!お前は何を見返りに、奴を身代わりにしたんだ?」
「誤解のないよう言っておきますが、私から彼に身代わりを頼んだわけではありませんよ。 私はね、あの名探偵気取りの生意気な坊やを今度こそ完全に叩きのめすシナリオが出来るまで、檻の中にいてもかまわなかったんですよ。
 だだ、少しばかりやっておきたいことがあったのと、彼が私の役に立ちたいとあまりに望むのでしばらくの間身代わりをお願いしただけです」
「やっておきたいこと、だと?」
 訝しげに猪川が眉を顰める。その仕種が「また、何か企んでいるのか」と雄弁に語っていた。高遠はそんな猪川を楽しげに見ると、雪見格子に凭れたまま手を伸ばした。
「こちらに来ていただけませんか、猪川さん」
「お前が来ればいいだろう」
 どこか拗ねたようにも聞こえる猪川の声が、高遠の笑みをより深くする。
「そうしたいのはやまやまなんですが…腰から下が怠くっていうことをきかないんです。誰かさんが昨夜、遠慮もなしに無茶をするから」
「満足させろといったのはお前だろうが」
「当然でしょう。そのためにわざわざ拘置所を脱走てきたんですから」
「…!?」
「貴方が欲しくて、抱かれたくて、彼に身代わりをお願いしたんですよ」
 蠱惑的な笑みに誘われ、猪川は高遠に近付いた。
 首に伸ばされた白い腕が、そのまま猪川を引き寄せる。
「その台詞を言ったのは、俺で何人目だ?」
 口唇が触れ合わんばかりの距離で皮肉げに猪川が言うと、高遠は「貴方だけですよ」と言い、その後の猪川の台詞を奪うかのように口づけた。
 雪見格子から見える庭の紫陽花は、降り続ける雨に濡れ一層色鮮やかになっていた。
「どうやって、抜け出した?」
「企業秘密、です」
 口づけの合間に続けられる質問に、高遠はひどく楽しげに言葉を返す。
「卑怯だぞ、高遠。質問に答える約束だったはずだ」
「すべてに答えると約束したわけではありませんよ、猪川警部」
 揶揄うようにわざとアクセントをつけて肩書きで呼ばれ、猪川は「やっぱり犯罪者との約束はあてにならない」と溜息混じりに小さく呟く。
 高遠はくすくすと笑うと猪川の肩を掴み、凭れていた雪見格子から背を離した。次の瞬間、猪川は押し倒されるような形で高遠を見上げていた。
「昨夜あれだけヤッといて…、まだ喰い足りないのか?」
 少しばかり呆れたように猪川が言う。高遠は黙ったまま男の浴衣の合わせに手を差し入れると、返事代わりのように男の熱い肌に手を這わせ、そのあとを口唇で辿った。
 溜息を大きくひとつ吐くと、猪川は躰から力を抜き、高遠の好きなようにさせる。
 不意に耳に届く雨音が大きく、激しくなった。
 視線を庭に向けると、先ほどまで艶やかに咲いていた紫陽花が強くなった雨の激しさに耐えきれず項垂れている。
「休暇は、いつまでですか?」
「明後日までだ」
 男の下肢に顔を埋めていた高遠が、思い立ったように顔を上げ問うのに猪川は短く答えた。濡れた口唇をなぞる舌の動きがあまりに淫らで、猪川の視線を釘付けにする。
「では、この雨はそれまで降り続けますよ」
 いくら高遠が『傀儡師』だとしても、天候までは操れるはずはない。だが妙な説得力が高遠の台詞にはあった。
「この雨は『檻』なんですよ」
「檻…?」
「ええ。貴方を私の元へ捕らえておくための…ね」
「なら、お前を捕らえておくためにはどんな檻を用意すればいいんだ?」
「そうですね…」
 言葉を途切れさせると高遠は楽しげに笑い、畳の上に投げ出されたままの猪川の手を捕らえ、自分の背に回させた。
「とりあえず今は、貴方の腕が一番でしょうね」
 そう言って心底楽しそうに微笑む高遠に、猪川は呆れ顔で溜息を吐いた。
「…躰が怠いんじゃなかったのか?」
 それに返されたのは、沈黙と口づけだった。
「せがんだのはお前だからな。あとで文句を言うなよ」
 そう言うと猪川は高遠を強く抱き、体勢を入れ替える。
 激しく耳を打つ雨音が、高遠の予言どおり止まないことを願っていたのは、猪川だけの秘密だった。


                                                   END