禁猟区〜サンクチュアリ〜
ACT.1 BAR〈傀儡〉 建ち並ぶ雑居ビル。溢れかえる煌びやかなネオン。一時の享楽を求め、手探りで泳ぐ、人間という名の溺れた魚達。 闇を隠れ蓑に澱のように溜まっていく欲と本能は、次第にその闇すら抱き込み、やがて夜を消していった。 眠らない街―――――新宿。 雑多な喧噪の中、その店は時を刻むことを忘れたかのようにひっそりとあった。 古めかしい水銀洋燈に照らされた黒い木製のドアには、店名を表すプレートすらなく、招かざる客を冷たく拒む。 その前に、一台のシルバーグレイのベンツが滑り込むように停まった。 運転手の若者がドアを開けようと飛び出すのを待たず、後部席から一人の男が降り立つ。 「カズシ、連絡するまでその辺をグルッとしてろ。女抱いててもいいが、ケータイの電源だけは入れてろよ」 揶揄うような声音で低く笑いながら男は言うと、財布から万札を無造作に抜き取り、若者に握らせる。カズシと呼ばれた若者は握らされた紙幣と男の顔を見比べると、慌てたように言い募った。 「若頭、危険です!ガードも付けずに…。月島組との手打ちはまだ終わってないんですよ!」 「心配するな、この店は中立区だ。誰だろうと物騒な真似は出来ない。―――例え、それが関東最大組織翼鷲会だったとしても、例外はない」 そう言い置くと踵を返し、目の前のドアを開ける。すると、どこからか監視カメラが自分を追いかけるのを気配で感じ、男は僅かに苦笑した。そのまま数メートル進み、先程くぐったのと同じ紫檀のドアの前に立つ。だがさっきの物とは違い、そのドアには小さな真鍮製のプレートが貼られていた。 BAR〈傀儡〉―――。 ドアを開けると、青銅製のクラッシックなデザインの手摺を持つ階段があり、半地下となったフロアが見通せる。 シックな格調高さが売り物なのだろう。新宿という場所柄に似合わず店内は落ち着いた雰囲気に包まれていた。 耳障りにならないほどに静かに流れるBGM。程よく混んでいるにもかかわらず、キャピキャピした下品な笑い声などはひとつも無く、訪れる客層の高さを物語っていた。 現に席にいる客達は政経財界の大物をはじめとした業界人が多く、古くは銀座に店を構え、多くの文士や芸術家にサロン的存在として愛されてきた〈傀儡〉は、今尚老舗の名店として名を馳せていた。 クラークにコートを預けた男は、真っ直ぐにカウンターへと進む。 「いらっしゃいませ、猪川様」 微笑みながらバーテンが、男の銜えた煙草にマッチの火を移す。すぐさま離れようとするその手を男が素早く捕らえた。 「三ヶ月ぶりだな、高遠」 そのまま、その細い指先に恭しく口づける。 「報酬はこれで支払い完了だな?」 「…はい」 高遠と呼ばれたバーテンは男の問いに笑みで答えると、さり気ない仕種で男の手から逃れる。男は深追いせず、ただ微苦笑を浮かべると僅かに肩を竦めた。 「ご注文は、いつもどおりで?」 頷く男の前に、好み通りに作られたバーボンが置かれる。 「―――ですが、猪川様。月島との和解はまだ、と伺ってますが…。ガードも付けずにいるのは不用心では?」 「ウチの若いの同じことを言うんだな」 喉の奥で、男―――翼鷲会栢原組系加賀組の若頭である猪川将佐は低く笑った。 「まあ、この店を一歩出ればどうかわからないが、ここにいる間は安全だ。―――そうだろ?」 猪川の暢気ともとれる鷹揚な台詞に、高遠は呆れたように小さな溜息を吐く。 「あまり若い方に心配を掛けないように。二代目になられる大事な躰なんですから…」 途端に猪川の眼が鋭く光り、片眉が微かに吊り上がる。 「さすがに、早耳だな」 「―――それが私のもう一つの仕事ですから…」 皮肉とも取れるような男の声にも、高遠は少しも動じなかった。 それは夜の街に棲む者としてか?――――――それとも、高遠が持つもう一つの顔のせいか? BAR〈傀儡〉には、常連客の中でも一部の者しか知らない隠された顔があった。それは情報屋としての顔だった。 人が居て酒があるところには、思わぬ情報が転がっている。それは今も昔も変わらぬこと。古くは、金と暇を持て余した富豪に、スポンサーを欲しがる芸術家の噂を入れたりする程度のことだったという。だが時代が変わり、ありとあらゆる情報がこの世の中を支配し、動かすようになった。情報を制する者がこの世を制す、とまで言われ、多くの者が私欲のためにそれを欲し、手段を講じた。そうしたなか〈傀儡〉は、社交場としての表の顔だけでなく、情報の収集とそれを売買する裏の顔とを持つようになった。今では、表であれ裏であれ〈傀儡〉に入らぬ情報はないとすら言われていた。 集められた情報は、ある一人の人物によって管理されていた。情報を売るも売らないも、またその価格でさえ『彼』の気分次第だといわれている。 〈傀儡〉の情報すべてに権限を持つ『彼』は、それらによって世の中すべてを見通し、その動きを一歩先に予測、もしくは操っているとさえ噂され、それに故に店名とかけて『傀儡師』と呼ばれていた。 そして、『傀儡師』とその顧客の間には暗黙のルールがあった。 『傀儡師』は気分で情報の売買はするが、私利私欲では決して動かない。また動いてはならない。だからこそ〈傀儡〉は中立区であり、『傀儡師』には何人たりとも手を出してはならない―――と。 そして現在、『傀儡師』の名を継いでいるのが、バーテンの高遠遥一であった。 猪川が高遠と知り合ったのは、三年ほど前のことだった。 極道の世界においての親である加賀組組長、加賀宗一に『傀儡師』として彼を紹介されたのだ。 新宿に腕のいい情報屋がいることは、当時猪川も知っていた。だが噂が抱かせたイメージと、実際に会った『傀儡師』―――高遠の印象は大きく異なっていた。 大目に見て二十代後半ぐらい。バイトの学生といっても通じるような漆黒の髪と瞳の青年は、凄腕の情報屋というにはあまりに華奢で頼りなげなげで、裏世界とは似つかわしくなかった。 疑惑を隠そうともしない猪川に、青年の眼は一変した。優しげな笑みを浮かべていた表情は、途端に闇の気配を濃くする。 「見掛けで人を判断していては、いつか油断を招きますよ」 揶揄うようにそう言うと、高遠は花瓶から一本の白薔薇を抜き取り、猪川に差し出した。 当惑した猪川が花を凝視めていると、それは僅かに動き、頬に小さな痛みを与えた。薔薇の持つトゲが傷つけたのだ。 「ほら…ね。清らかな乙女のような花にもトゲはある。ましてや人なら――尚更ですよ。猪川様」 剣呑な光を眼から消すと、高遠は再び邪気のない笑みを浮かべる。そうして薔薇の茎を短く手折ると、猪川の上着の胸ポケットに飾った。 「お前の負けのようだな、将佐」 豪快に笑いながら言う加賀に、猪川も咽喉で笑い頷いた。 手の甲で乱暴に傷を拭おうとする猪川に気づくと、高遠はその手を留め、自らのハンカチでその血を拭った。そして男の前にブラッディマリーのグラスと、店名と『高遠遥一』とだけ書かれた名刺を置くと、「失礼を致しました。今後とも〈傀儡〉を御贔屓下さい」と言ったのだ。 それは猪川が『傀儡師』の客として認められたことに他ならなかった。 カウンターの中で浮かべる優しげな笑み。そしてそれとはあまりに違う、狡猾さすら感じる『傀儡師』としての顔。 ―――この街に来るまで何があったのか。 自ら闇に棲まう以上、他人の転落話を問いただすほど猪川は野暮な男ではない。だが高遠の年に似合わぬ腰の据わり方とその瞳が持つ闇の昏さに、猪川は興味を引かれずにはいられなかった。 なにより高遠に見据えられたとき感じた、戦慄にも似た快感。 猪川は覚えのある熱の昂まりに僅かに逡巡し、シェイカーを操る高遠の白い指先にそれらの迷いを振り切った。 翌日、一人〈傀儡〉を訪れた猪川に高遠は笑顔で注文を尋ねた。 「ブランデーとホワイトラム、ホワイトキュラソーを三分の一ずつ。それにスプーン一杯のレモンジュース。このレシピで頼む」 「承知しました」 頷くと高遠は慣れた手つきでそれらを計量し、銀色のシェイカーへと注ぐとシェイクする。そして猪川の前に置かれた空のカクテルグラスに、半透明の黄色の液体を注いだ。 黙ったままそれを半分飲むと、猪川はグラスを高遠の方へ押し戻した。 「…お作り直しましょうか?」 感情の全く窺えない声で高遠が問うと、猪川は首を横に振る。そして真っ直ぐ高遠を凝視めると「お前が欲しい。俺のモノにならないか?」と告げた。 あまりにストレートな猪川の台詞に、一瞬高遠は驚愕の表情を浮かべたが、直ぐさま侮蔑ともいえる視線を男に向けた。そして皮肉げな笑みを浮かべたまま、口を開こうとする。 だが、猪川はそれを仕種だけで止めた。 「お前の言いたいことはわかってる。だから誤解の無いように先に言っておくが、俺は『傀儡師』としてのお前が欲しいわけじゃない」 「…どういうことですか?」 高遠の形の良い眉が、訝しげに顰められる。 「俺が興味あるのはお前自身だということだ。―――まあ、そういう意味では『傀儡師』のお前も含まれるのか?だがな、高遠。お前の持ってる情報は今の俺にとってお前自身ほどには価値は無い」 「まさか、その言葉を私が信じるとでも…?」 おそらく『傀儡師』の情報欲しさに、こういった申し出をする輩が多いのだろう。高遠の声は冷たく硬い。 「勿論、そう簡単にいくとは思っていない。だから、お前にひとつ約束をしようと思ってな」 「―――約束…?」 「そうだ、俺が欲しいのはお前だからな。お前に『傀儡師』としての仕事は依頼しないことを約束しよう」 「折角の『傀儡師』の顧客としての権利を放棄すると?馬鹿なことを…」 「俺はそうは思わん」 自信たっぷりに言う猪川から、居心地悪そうに高遠が視線を逸らす。その様子に男は喉の奥で笑うとカクテルグラスを指で弾いた。硬質で涼やかな音が小さく響く。 「このカクテルの名を知っているか?」 「―――ビトゥイーン・ザ・シーツ、ですね」 「本職相手に馬鹿な質問だったな。それにしても『シーツに行くまで』とは…要するに寝酒ということなんだろうが、随分意味深なカクテルだと思わないか?」 苦笑とも揶揄ともとれる曖昧な笑みを浮かべた猪川の問いに、高遠は答えない。ただ、男の本心を読み取ろうとするかのように、じっとその眼を凝視めていた。 男はそんな高遠に気分を害した様子もなく、言葉を続ける。 「今度からラストオーダーには、俺は必ずこれを頼む。そして半分だけ飲む。―――いつか、お前が俺のモノになる気になったとき、もう半分を飲んでくれないか?」 高遠は半分酒の残ったグラスと男の顔を交互に凝視めると、尖らせていた視線を弛め、意外にもゆったりと微笑んだ。 「…意外に控えめな誘いをなさるのですね。もっと強引に押すタイプだと思ってましたが?」 「実は俺も驚いている。自分の中にこんな気の長い所があったのか、とな…」 低くそれでいて楽しげに笑う猪川に、高遠は笑みを一層深くし「それではこのグラスは片付けさせていただきますね」とあっさり言い放ったのだった。 その日から猪川が帰った後には、半分酒の入ったグラスがカウンターに残されるようになった。 そうした日々は約二年半続き、そして―――今回の加賀組と月島組の抗争が始まった。 加賀組と月島組は同じ翼鷲会栢原組系の組だったが、シマが隣接していたせいもあり、あまり仲が良くなく、以前から小さなゴタゴタは陰でひっきりなしに起きていた。 今回の抗争も月島組の幹部である紅林が、加賀組のワタルというチンピラの女に横恋慕したことが切っ掛けだった。 紅林の執拗で脅迫まがいの誘いに困った女はワタルにそのことを話し、激怒したワタルは相手の素姓も確かめず飛び出し―――そのまま、生きて帰ってこなかったのだ。 月島組組長である月島正彦は最初、幹部とチンピラということもあり、この問題を金で片づけようとした。だが加賀宗一は、紅林本人に責任を取らせることを求め、頑として譲ろうとしなかったのだ。 決裂した交渉。 繰り返される襲撃と報復。 決着は何ひとつ着かないまま、双方は被害だけを大きくしていった。 いずれこのままでは無関係な素人に被害が出るだろう。そして、そうなる前に親組である栢原組が手打ちを進めることは明らかだった。 そうしたなか猪川は一つの決断をした。 今回の抗争の根本である紅林の命を、自分自身の手で取ることだった。 だが地下に潜っている紅林の居所は杳として知れず、猪川を苛つかせた。栢原組が手打ちに動けば、紅林を討つことは叶わなくなるのだ。 苦渋の選択の末、猪川は〈傀儡〉を訪れた。 男の顔色から察したのか、それとも自身の情報網からすべての事情を心得ているのか、高遠は黙ったまま猪川の台詞を待った。 「―――お前に、頼みたいことがある」 「…はい。月島組幹部、紅林の居所ですね?」 やっとのことで重い口を開いた猪川に、高遠は同じぐらい硬く重い声で答えた。 「何もかもお見通しか…」 自嘲気味な男の声には答えず、高遠は男の好みよりやや強めに作られたバーボンを前に置いた。猪川はそれを一気に飲み干すと、乱暴な仕種でグラスをカウンターに戻した。 「現在、三カ所まで絞り込めてます。二、三日中にははっきりするかと…」 淡々とした高遠の声に、「頼む」と短く言うと猪川は席を立った。 その背中を高遠が呼び止める。 「情報提供料は『傀儡師』が決めることはご存じですね?」 「ああ。五百万でも、一千万でも好きに決めてくれ」 振り返りもせずに男は素っ気なく言う。 「では―――すべてが片付いたら、また〈傀儡〉にいらして下さい。それが情報料です」 反射的に振り返った猪川は、鋭く高遠を睨み付けた。 ワタルは猪川のガードによく付いていた。素直すぎて上手く生きられない不器用な青年で、そのせいでヤクザ者に堕ちたものの、猪川はいつか堅気に戻してやりたいと思っていたのだ。―――だが、もうワタルはいない。 猪川はせめて仇は討ってやりたかった。そして、人一人殺めた始末は己の手できちんとつけるつもりでいたのだ。 「俺に身代わり自首を立てろというのか?」 「はい。それ以外の報酬では、この話はお受けしません」 猪川は黙ったまま、再び高遠の前に立った。絡められたままの視線は艶めいたものとは程遠く、それでいてひどく熱かった。 猪川の矜持を砕くかのような条件を突きつける高遠が憎かった。だが振り返った時、一瞬だけ見せた高遠の縋るような視線が猪川の未練を甘く擽ったのも確かだった。 「冷静になってください。若頭である貴方の不在は、手打ちの際必ず加賀組の不利になります」 「俺を引き留める理由はそれだけか?」 手を取り指先を親指で辿るように撫でると、高遠はピクリと躰を震わせた。しかし高遠は猪川を見据えたまま「それだけです」とはっきりと言うと、そのまま猪川の手から逃れたのだった。 「―――わかった、お前の条件を飲もう。紅林を捜してくれ」 「承知しました。では分かり次第ご連絡を。携帯電話の方でよろしいですか?」 頷くと、今度こそ猪川は〈傀儡〉を後にしたのだった。 それが三ヶ月前のことだった。 その後、高遠から情報を得た猪川は直ぐさま紅林を討った。加賀は猪川が言い出すまでもなく、身代わり自首を立てるように手配をした。 紅林が死に、加賀組の組員の一人が自首したことによって、加賀組と月島組の抗争は手打ちの方向へと向かっていった。 この時を逃しては手打ちの機会は無いと判断した栢原組の行動は素早く、栢原組二代目組長である四堂極自身が月島組へ出向くと和解の条件を取り付けてきたのだ。 当初、月島は猪川の身柄引き渡しと、加賀の隠退を和解の条件としてきた。紅林を殺害したのは警察に出頭した者ではなく、猪川の犯行ではないかと疑っていたのだ。 だが四堂は犯人は既に自首したとし、これ以上抗争が続くような真似は望ましくないと猪川の身柄要求をも良しとしなかった。 親組でもあり、現在翼鷲会副会長の任に就いている四堂の言葉に従わないわけにもいかず、月島は加賀の隠退のみを和解の条件とした。 そして加賀はその条件を呑んだのだった。 あの時、高遠に今の状況が見えていたのかどうかはわからない。だが、もし彼の言ったこと聞かず猪川が出頭していたら、月島組のこの条件は跡継ぎ不在の加賀組にとって大きな痛手となるものだった。最悪の場合、月島組もしくは栢原組への吸収という恐れもあったのだ。 今更ながらに猪川は『傀儡師』を味方にすることの幸運と、反対に敵にしたときの恐ろしさを思い知ったのだった。 そして、一つの疑問が猪川の胸中を占める。 今回の仕事は『傀儡師』にとってメリットがあったのか―――ということだ。 高遠は猪川に金を一切要求しなかった。そのうえ情報料として欲したものは、猪川の無事だとも解釈できる。 約束を違えた今、もはや自分にそんな権利は無いということは十分わかっていた。だが猪川は、自らの裡に湧き起こる自惚れにも似た感情を捨てることができなかった。 「猪川さん。お久しぶりね」 華やいだ、それでいてしっとりとした落ち着いた声がし、品が良く上等な物だと一目でわかる和服の女性が隣に座った。 〈傀儡〉のオーナーママ、美咲礼子だった。 「久しぶりだな、ママ。相変わらず美人だ」 「似合わないお世辞なんか言って…。さっきまで私のことなんて忘れてたでしょ?」 夜の女特有の甘い台詞。だが礼子からは媚びた様子は微塵も感じられない。 「真っ直ぐに高遠ちゃんのところ行ったの、見てたわよ。猪川さんが高遠ちゃんにご執心なのは知ってるし、久しぶりだってこともわかってるけど、バーテンの独り占めはダメよ!彼、うちのカンバンなんだから」 揶揄う礼子の視線を追うと、高遠が別の客の接待をしていた。 客の話に相槌を打ちながらグラスに酒を注ぐ。その隙のない笑顔に、猪川は無意識に自嘲的ともいえる苦笑を浮かべた。 そんな猪川の様子を見て礼子が微笑む。 「―――『お願い』したこと、後悔してるの?」 何の気負いもなくさらりと告げられた台詞に、猪川は目を瞠った。 〈傀儡〉のオーナーである礼子に関しては様々な噂があった。 前の『傀儡師』であるとか、『傀儡師』を更に操る者であるとか―――。 とにかくオーナーである以上、全く関わり合いがないわけではないだろうとは猪川も思っていた。だが、こんなふうに自ら関わりを示すようなことを礼子が口にしたことは、今まで一度もなかった。 「ごめんなさい。私が口を出すことじゃなかったわね」 「ママ…。貴女は一体どこまで――」 「遅くなって、すいません」 疑問を問いかけようとした猪川の台詞を遮るかのように、奥からアッシュブロンドに髪を染めた一人の青年が現れた。 「いいのよ。ちゃんと買えた?」 猪川に軽く会釈をすると礼子はスツールから立ち、カウンターの中へと入る。 「えっと…大体は。でも、これだけが買えなくて…」 目の前に客である猪川が居るにもかかわらず、それを全く気にする様子もない青年の態度に、猪川は無意識に眉を顰めた。 年は二十歳になったばかりくらいだろうか。もしかするとまだ十代なのかもしれない。 高遠と同じバーテンの制服を身に纏っているが、所作の落ち着きかたが全く違う。不慣れなその様子は、いかにもバイトといった感じであった。 「ママ、新しく人を雇ったの?」 「ええ、二ヶ月ほど前からね。城本武くんっていうの。理工学部の学生さんよ」 この店の抱える秘密から考えると、プロ意識の薄いバイトを雇うというのはひどく不自然に思えた猪川は、言外にそれを含めて礼子の問うた。だが礼子からの返事は、純粋に青年の紹介のみで猪川が期待したような反応はなかった。 「城本くん。こちら、うちの常連さんで猪川さんよ」 「よろしくお願いします」 軽く頭を下げる青年を、猪川は静かに無視すると席を立つ。 「あら、もうお帰り?」 「ああ。まだ色々とあるんでね…。それじゃあ、ママ」 踵を返した猪川はクロークへ向かい、係りの者が差し出すコートを受け取ろうとする。だが、それを横から奪う手があった。いつの間にか傍らに来ていた高遠だった。 「外のドアまでお送りします」 視線を合わせないまま高遠が言う。 「今しがたママに、店のカンバンを独り占めしないように釘を刺されたんだが?」 「少しぐらい構いませんよ」 ワザと戯けたように言う猪川に、高遠は硬い声のまま答えると、さっさと階段を上っていった。 店から出ると二人は、外のドアまでの数メートルを黙ったまま歩いた。 ドアの前で足を止める猪川の肩に、高遠はコートをそっと掛ける。だがその手は、いつまで待っても猪川から離れなかった。 「高遠…?」 訝しげに、それでも振り返ることなく猪川が問いかける。 「―――貴方は、私のことを怒っておられるのでしょうね…」 背中から聞こえる小さな呟きに、猪川は苦笑を漏らす。 「なぜだ…?俺がお前を怒るなんて―――」 「私が…あんな条件をつけて、貴方のプライド傷つけてしまったから」 そんなことか、と猪川は溜息を吐く。 確かに最初は腹が立ったが、今では高遠に感謝していた。加賀の隠退は免れなかったとはいえ、少なくとも加賀組は猪川を二代目として残ることができるのだから。 「怒っているのは、お前の方だろ?俺はお前との約束を違えた。お前への情より、ワタルとの義理を優先したんだからな」 そう言うと猪川は、肩に置かれたままの高遠の手にそっと触れた。 「もう離せ。俺からは振り解けない」 「嫌です。―――――貴方は、もう二度とここには来ないつもりでしょう?今夜も、あの条件があったから来ただけだ。だから今日も、三ヶ月前も、私にあのカクテルを作らせなかった……。違いますか?」 「高遠…」 声音自体はとても静かなものだった。だが今の高遠から、普段の冷静さは窺われない。 まるで我が儘を言う子供のような高遠に、猪川は困惑せずにはいられなかった。 「振り解けないなんて―――――嘘だ。貴方は、簡単に私を切り捨てることができるくせに…」 途端に強い力で手を引かれ、高遠がバランスを崩す。肩に掛けられたままだったコートが床に落ちたときには、高遠の細い躰はすでに猪川の腕に収まっていた。 「何を考えているんだ、高遠?そんな甘いことを言って…俺をどうしたいんだ?」 きつく鋭い言葉が、思わず漏れる。 高遠の言ったとおり、猪川は〈傀儡〉を訪れるのはこれが最後と決めていた。 事情はどうであれ約束を違えた以上、今まで通り店に通うことは猪川にはできなかったからだ。ましてやビトゥイーン・ザ・シーツを作らせることなど、本気だったからこそできようはずもなかった。 だが高遠は、まるでそれが不実でもあるかのように猪川を責めるのだ。 高遠は猪川の鋭い視線を真っ直ぐに受け止めると、口を開いた。 「『傀儡師』は気ままに情報の売買をしても、立場は常に中立でないといけません。だからこそ〈傀儡〉と『傀儡師』は不可侵なのです。顧客の誰か一人を特別視することはできません。だから―――」 「高遠」 尖らせた眼が困惑に見開かれ、そして柔らかく解けるのが自分でもわかった。 言い募る高遠の口唇を、猪川は親指でたどるように撫でると台詞を遮った。 「それ以上言うと、俺はつけ上がるぞ」 めずしく見送りに出た高遠が何を言いたいのか。ここまで言われ、猪川はようやくそれがわかった。 猪川は高遠を抱く力を強くする。 「――――――心は、とうに俺のモノだと…」 「猪川さん…」 口唇を撫でた手で、そのまま顎を捕らえ上向かせる。 猪川が何をするつもりなのか、高遠にわからないはずはなかった。猪川自身、彼が拒める余裕を十分残した速度で口唇を寄せていったのだ。 だが高遠から拒む様子は全く見られなかった。それどころか、ゆっくりとその瞼を閉じたのだった。 それを目にした途端、猪川の逡巡は一気に失せた。 重ねた口唇を柔らかく啄み、そのしっとりとした感触を楽しむ。 歯列を割り、口腔を探り舌を絡めると、高遠の背が僅かに震えたのがわかった。 「ん、……」 少し乱暴に舌根を吸うと、呼吸が苦しいのか高遠は小さな喘ぎを漏らす。 口づけに応えながらも、高遠が猪川の背にその腕を回すことはなかった。 それが『傀儡師』としての最後の砦であるかのように―――――。 ただ、猪川のスーツの裾を皺になるほどきつく掴んでいた。 ACT.2 傀儡師たち 女の喘ぎが、薄暗い部屋に密やかに響く。 シーツの波間にぼんやりと浮かぶ青白い男の背には、それと変わらぬほどほど白く、細い指が絡みついていた。美しくマニキュアが施されたその指は、決して男の肌を傷つけたりはしない。 行為の激しさを物語るようにシーツは一瞬ごとにその模様を変え、ベッドは微かな軋みをたてる。だが濡れた声をあげながらも女は、ただ労るように優しく、ゆったりとその背中を撫でるだけだった。 「遥一…」 どこまでも甘く艶を含んだ声で女が呼ぶ。 「礼子」 答える男―――高遠の声も情欲に掠れ、いつも以上に妄りがましい。 高遠が女の前髪を梳くように撫でると、女は伸ばした腕を男の細い首に絡め、引き寄せる。そのまま重なろうとした口唇を、不意に高遠の指が阻んだ。 「言ったはずだよ、礼子。今夜はキスはなしだって」 キスを拒んだ指先で宥めるように女の柔らかな口唇をたどり、高遠が言う。 口づけを拒まれた理由に心当たりのある女は、揶揄うような笑み浮かべ、その指に軽く歯を立て非難した。 そんな様子に高遠は苦笑すると、ゆっくりと咬まれた指を外し、代わりに女の鼻梁に口唇を落とす。途端、繋がったままの腰が一層深くなり、女の高い嬌声が部屋に響いた。 そのまま緩く、早くリズムを変える律動に、再びベッドの軋みが同調する。 跳ね上がり空を切る女の細い足首を捕らえると、高遠はその甲にも口づけた。 甘い恋人同士達のような戯れ。だが二人とも、これが愛情からの行為ではないことをわかっていた。 シャワーの水流に身を委せていた高遠は、無意識に口唇に触れている自分に気づき失笑を漏らす。そこに残る感触は先程まで抱いていた女の柔らかい肌ではなく、煙草の匂いの残る男の口唇のものだった。 なぜ、あそこまで許してしまったのか…。 男を追ったとき、あんなふうに縋り、次の約束を乞うつもりはなかった。 普段の高遠であれば―――そして相手が普段の猪川であれば、もっと上手くあしらうことができたはずだった。 だが男は、顔を見せれば用は終わったとばかりに、あっさりと高遠に背を向けた。決して振り返ろうとはしない男の背中は、高遠を恋うのと同じ強さで、高遠を拒んでいた。 だから――――――引き留めなくてはいけないと思った。 猪川と交わした口づけを、後悔しているわけではない。 だが思う以上に自分の裡に入り込んでいた男の存在に、あの時まで気づかなかった自分自身に少しばかり呆れずにはいられなかった。 キスの温度を反芻するかのように、再び口唇に触れる。 あの時、場所が〈傀儡〉の廊下などではなかったら―――そう、例えばどこかの部屋に二人っきりだったとしたら、きっと二人ともキスだけで止めることはできなかっただろう。 口唇を赤く微かに腫らして戻った高遠に、礼子はすべてを見透かしたような微笑みを見せた。今夜彼女をベッドに誘ったのも、猪川が残した欲望の熾火を静めるためだとわかっているのだ。 帰り際、「また来る」と言って微かな笑みを浮かべた男の姿を思い出す。。 『傀儡師』であることを理由に、心の裡はどうであれ、猪川の想いに応えることはできないと、それでも会いに来て欲しいと言った高遠の狡さを、男は一言も責めなかった。 与えられるキスに溺れても、その背中を抱き締めようとしない高遠の不実さすら、男は受け入れたのだ。 僅かに進んでしまった猪川との関係は大きな誤算で、決して素直に喜べるものではない。いつか感情に流された自分の選択を後悔するときがくるかも知れない。 それでも、高遠は猪川を失わずに済んだことに安堵していた。 バスルームから出て寝室に戻った高遠は、そこに礼子の姿がないことに気づく。 「美咲さん?」 「ここよ」 応える声はリビングルームの方から聞こえた。 高遠がそちらに足を向けると、バカラのグラスや洋酒のボトルの入ったボードが横にスライドし、何もないはずの壁の向こうに薄暗い空間を作りだしていた。 BAR〈傀儡〉の最上階―――『傀儡師』の私室には幾つかの秘密があった。 例えば、寝室のクローゼットには隠しエレベーターがあり〈傀儡〉の事務室のロッカーからの移動が可能になっていたし、ボードの裏にあるオーソドックスな隠し部屋には『傀儡師』の情報の源が隠されているといった具合だ。 隠し部屋の大部分は七台のパソコンに占められていた。それらの内の五台は常に様々な機関にハッキングすると、痕跡をきれいに消し去り、メインコンピューターに情報を持ち帰っているのだった。 「私が使っていた頃とは、ここも随分変わったわね」 高遠のシャツを一枚羽織っただけの礼子の姿が、ディスプレイの青白い光に浮かび上がっている。 「今は様々なものがデジタル化してますからね…。美咲さんのときより、ずっと情報収集は簡単で能率的ですよ」 不意に、礼子が小さく笑う。 「何ですか?」 訝しげに問うと、礼子は楽しげな声音で応えた。 「気づいてる?貴方、普段は私のこと“美咲さん”って呼ぶくせに、ベッドでは“礼子”って呼んでるのよ」 「そう…ですか?」 微かな困惑を滲ませた呟きを漏らすと、高遠は何かに思い至ったように揶揄うような笑みを礼子に向けた。 「多分、私の母親がレイコだからでしょうね。字は少し違いますが」 「どういう意味…?それって、まさか――――――」 「―――知りたいですか?」 高遠の笑みが一層深くなる。 「いいえ、結構よ」 揶揄うつもりで言ったことが、高遠の裡にある闇の深淵に繋がっていたことを察した礼子は早々に手を引いた。 「では、本題に移りましょうか。―――先代」 「その呼び方は止めて頂戴。急に老け込んだ気がするわ」 礼子は不快感も顕わに、その整った眉を顰めた。 「それで、どう?ネズミちゃんの様子は?」 場所を寝室に移した二人は、そこに置かれたパソコンの画面を凝視めていた。 「やっと、パスワードを全て奪取できたようですね。二つ三つ、情報がダウンロードされた形跡があります」 「やっと…ね」 大袈裟な仕種で礼子が溜息を吐く。 「どうして、もっと簡単なパスワードにしなかったのよ。おかげで侵入させるだけで二ヶ月もかかったじゃない」 理不尽ともいえる文句を言う礼子に、高遠は苦笑して見せた。 「いくらコレに入っているのがダミーデータだからって、そんなあからさまなことをすれば、罠だとすぐに気づかれてしまいますよ」 「それは、そうだけど…」 そう言いながらも礼子は、まだ小さく文句を呟いていた。 ネズミの侵入を黙認していることで、〈傀儡〉には幾つかの問題が生じていた。そしてそれは、経営者である礼子に直接降り掛かっていたのを知っている高遠は、彼女を振り返ると「大丈夫ですよ」と宥めるように言った。 「ここからは、そう時間はかかりませんよ。この二ヶ月で随分痺れを切らしているはずですからね……早々に動いてくれますよ。―――――アッシュブロンドのネズミも、その背後にいる大ネズミも、ね」 眼を眇め、酷薄とした笑みを浮かべる。そこには猪川に縋ったときに見せた、頼りなげな様子は微塵もなかった。 夜明けには、まだ少し早い時間――――。 公園にある電話ボックスの中で、アッシュブロンドの青年は寒さに震えながら人を待っていた。 約束の時間からは三十分が過ぎていた。無意識に相手への文句が口を吐く。 その時、背後のガラスを叩く音がした。振り返るとコートの襟を立て、顔を隠すようにした待ち人の姿があった。 「遅いよ!」 不機嫌さを隠そうともしない青年が、文句を言いながらボックスから出る。だが男は、そのギョロリとした大きな眼で青年を一瞥し、短く応えただけだった。 「後を付けられたりしてないか、確認をしてたんだ」 「そんなドジしないよ」 鼻で笑うように言う青年を、男は侮蔑の視線で凝視める。 青年には、自分がしたことの意味などわかっていない。 ―――――だが、それは男にも同様にいえることだった。男は自分が敵に回した相手が、ただの情報屋だと思っているのだ。その存在を男に教えた者が、何故手を出さないのか。その意味を知らない。 「早く渡せ!」 恫喝するような男の苛立った声に、一瞬青年が身を固くする。しかし、それを隠すかのようにワザと軽い調子で「わかったよ」と言うと、ジャンパーのポケットから無造作に一枚のディスクを取り出した。 「随分、時間が掛かったな」 労をねぎらわれるどころか、反対に咎めるようなことを言う男に青年はカッとなった。 「ガードが堅いんだよ!文句があるならアンタがやって見ろよ!一年経ったって、パスワードの一つも解けやしないよ!」 だが男は、青年の文句など全く意に介した様子はなかった。 そのままディスクを手に去ろうとする男を、慌てたように青年は引き留めた。 「待てよ!約束の金は?」 「こいつが本物かどうかを確認してからだ。第一、お前の仕事はまだ終わったわけじゃない。―――そうだな、これはほんのリハーサル。本番はこれから、ってとこだな」 喉の奥で籠もったように低く男が笑う。 青年は冷たい汗が背中を伝うのを感じた。 男が真っ当な世界の者ではないことは最初からわかっていた。報酬として提示された金額からも、ヤバイ仕事であることも。 だが、わかっているつもりで―――どこか甘く考えていたのだ。 怯えた様子を見せた青年に、男は凶暴な笑みを浮かべたまま近寄った。 「言っておくが馬鹿な考えは起こすなよ。命は惜しいだろ、城本武くん」 滑稽な印象すら与える男の大きな眼が、酷く凶悪で醜悪なものにと転じていた。 高遠の携帯電話が着信を告げる。 「どうやら、本格的に動き出したようですね」 傍らにいる礼子を凝視め、微かに高遠が微笑んだ。それに応えるかのように礼子も微笑み返す。 「『傀儡師』をコケにした報いはきっちり受けて頂きますよ……」 酷薄とした笑みが、高遠の闇を浮かび上がらせる。 月のような冷たさだけが、その場を支配していた――――――――――。 To be continued… |