無題


 きらきらと光る暖かそうな水の中を、キレイな魚たちが泳いでいる。
 ゆらゆらと。
 優雅に―――まるで、ダンスでも踊っているかのように。
 ウロコに反射する光は、まるで自身が放っているかのようにすら見える。

 そして、それを見ている自分は…。
 地の底に―――まるで光を怖れるかのように、暗く深い闇の底に。

 どうして、自分はこんな風に光を見つめているのだろうか…?
  此処には、自分と同種のモノがいるというのに。
  自ら地底に堕ち、棲まうことを望んだというのに。
 そのことを、悔やんだことなど一度として無いというのに――――――。

 不意に、一匹の魚が群れから外れてきた。
 その魚は真っ直ぐにこちらに―――地底に、向かって来た……。




「おいっ!」
 耳元に響く大声とともに強く躰を揺すられ、高遠は急激に眠りから引き戻された。
「―――どうしたんですか?こんな時間に…」
 掠れた声は、寝起きのせいか―――それとも眠りに入る前、散々目の前の男に啼か
されたせいなのか…。
「どうした、って…。そりゃ、こっちの台詞だよ」
 言いながら男が、ゆっくりと頬を撫でてくる。
 その困惑したような男の表情と、曇ったようにぼやけたままの視界が不思議に思
え、高遠は自分の頬に触れた。
 濡れた―――感触があった。
「―――なんで、僕は泣いてるんですか?」
 不思議そうに問われ、男は心底呆れたように大きな溜息を吐いた。
「俺にわかるわけないだろう。気持ちよさそうに寝てるなと思ってたら、突然泣き出
されて。―――焦ったのは、こっちなんだからな」
「……人の寝顔をずっと見てたんですか?―――悪趣味ですね」
 男の言葉尻を捕らえ詰るが、本気で言っているわけではないのが容易に知れる声音
だった。
 そのことに気をよくした男が、高遠を抱き寄せる。
「怖い夢でも見たのか?」
 子供にでもするように優しく問いかけ、目尻に口づける。
「怖い夢…?まさか!」
 確かに夢は見ていた。だが、どんな内容だったのかは全く覚えていなかった。
 ただ、男の言うような怖い夢などではなかった……気がした。
 むしろ――――――その逆だったような…?
「聞いていいですか?どんな夢を見たら、僕は怖がるんですか?」
「……逮捕される夢、とか?」
「―――本気で、そんなこと思ってます?」
 くすくすと笑いながら聞き返すと、男は苦笑して「いいや」と言った。
 いつもでは考えられない、穏やかな空気が二人を包んでいた。
 時間の無い逢瀬。
 それ自体は、普段と変わらないと言うのに―――。
 悪戯心に唆されるまま、高遠は男にのし掛かると左胸に耳を傾けた。
「お…おいっ!?」
 トクリと男の鼓動は跳ね上がると、そのまま早いリズムを打ち続ける。
 こんな他愛ないことに動揺する男の初心さに、高遠は我知らず笑みを深くした。
 バランスよく付いた筋肉の感触を掌で楽しみ、すっかり馴染んだ肌の匂いに深い溜
息を吐く。
 不意に―――瞼に、身を捩るようにして泳ぐ魚が浮かんだ。
 ああ、そうか…。
 先程まで見ていた夢を思い出し、男に気づかれないように微笑んだ。
 ――――――あの魚は、この男だったのだ。
 彼の美しい人のように、日の光の元でのみ生きるわけでもなく…。
  ましてや―――自分のように地底に棲むわけでもない。
  ただ、この男は―――泳げるのだ。
 光も闇も関係なく。
 自分の望んだ場所を。
 光に目を眩ませることも、地底の暗さに溺れることもなく―――。
「おい!いい加減に降りろよ」
 照れたような声が、遠くに聞こえた。
 瞼が急速に重くなる。
 鼓動に誘われ、再び眠りの淵に意識が落ちようとしていた。
「お、おいっ!高遠!」
 ピクリとも動かないその躰から、やがて規則正しい寝息が漏れ始めたのに気づき、
男は仕方がないとでも言うように大きな溜息を吐いた。
 そして胸で眠る高遠を起こさないように、静かに毛布を手繰りよせると、その白い
背を包み、抱きしめた。
「おやすみ。良い夢を」
 艶やかな黒髪に口づけ、囁いた男の声が届いたのかどうか―――。
 高遠の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

                                END  






04/1/29 UP